家族孝行とは人に成り続けること《備忘録》

こんにちは、マサラチャイです。

家族孝行ってなんだろう。
自粛期間中、そんなことを考える時間がありました。
祖父祖母や父母がくれた愛情に対して、いったいどれだけの恩が返せるのでしょう。

欲しい物を買ってあげる?
同じ時間をできるだけ過ごす?

それも一理あるけれど、何か欲しい物があるかを聞いたとしても、「あなたが元気に帰ってくれば何もいらないよ。早く家に帰っておいで。」と言うのでしょう。
わたしがどれだけ家族との時間を大切にしようとも、家族がわたしのために費やしてきた時間の方がきっと無限にあるのでしょう。

エレファントカシマシの「地元の朝」という曲の歌詞に心を動かされました。
一部を抜粋して紹介します。


玄関の前で奮い立って笑顔をつくった
母は喜びと心配をないまぜた表情で見ていた 「お母さん、この通り、元気でやっているよ
おまけに強い男だから僕は大丈夫さ…(云々)」 意味も無く得意気に上っ調子で母親に語りつづける
そしてボンヤリと自問自答をしていたんだ
アイセイ
「立派な大人になりたいな
立派な大人になりたいな
確かな仕事をしとげたいもんだな、ああ」
父はすごく嬉しそうに迎えてくれた
そして笑いながら野球の話などしたものさ
二親ともすでに七十に近いんだ ああ
結局その日は実家でメシを食って
色んなものをもらって外へ出た 外へ出た
外はもう夜だった
そしてイメージのない頭で自問自答したものさ アイセイ
「人間なんて人情ドロボウ
二親に捧げられし愛を
一体どうやって返そうか?返そうか?」


1年ぶりに実家を訪れた男性目線で書かれているこの曲は、哀しさにも似た切なさと地に足をつけて生きていく男の覚悟を感じます。

立派な大人になりたいな。

恩を返すとは、自分自身の人生を全うすること、「立派な大人」になることかもしれません。

立派な大人。
人に成るとはどういうことなのか。
成人式の日、新聞の紙面に載っていたある詩が今でも心に残っています。

谷川俊太郎の「成人の日に」

人間とは常に人間になりつつある存在だ
かつて教えられたその言葉が
しこりのように胸の奥に残っている
成人とは人に成ること 
もしそうなら
私たちはみな日々成人の日を生きている
完全な人間はどこにもいない
人間とは何かを知りつくしている者もいない
だからみな問いかけるのだ
人間とはいったい何かを
そしてみな答えているのだ 
その問いに
毎日のささやかな行動で
人は人を傷つける 
人は人を慰める
人は人を怖れ
人は人を求める
子どもとおとなの区別がどこにあるのか
子どもは生まれ出たそのときから小さなおとな
おとなは一生大きな子ども
どんな美しい記念の晴着も
どんな華やかなお祝いの花束も
それだけではきみをおとなにはしてくれない
他人のうちに自分と同じ美しさをみとめ
自分のうちに他人と同じ醜さをみとめ
でき上がったどんな権威にもしばられず
流れ動く多数の意見にまどわされず
とらわれぬ子どもの魂で
いまあるものを組み直しつくりかえる
それこそがおとなの始まり
永遠に終わらないおとなへの出発点
人間が人間になりつづけるための
苦しみと喜びの方法論だ


人が人でいるための、苦しみと喜びの方法論を、生涯行動で実践することで、わたしは家族孝行をしていきたいと思っています。

彼らがこの世からいなくなったとしても、わたしは生き方で孝行し続けていきたい。

最近、考えていたことです。

マサラチャイ


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