虫プロ

2017年3月12日手塚記念館トークショー「虫プロの遺伝子 ~ロボットを創った男達」前編

宝塚ホテル

富野由悠季氏

高橋良輔氏

※カメラは手塚記念館のシールのあるものが一台。PCなどの設置はなし。アーカイブ用と思われる。

Q、宝塚に来られたのは、富野監督は初めてだそうですね。お二人のイメージは?

(マイクを譲り合う二人)

高橋 ここ十年くらい、毎週関西には来ています(現、大阪芸大教授)。宝塚は大阪の近辺ですが、落ち着いている。大阪に馴染んだ自分ですが。

富野 えーと、今回初めて来てショックでした

 小林一三さん、宝塚を作った人ですが、彼のことを考えると、手塚のキャリアが分かる。経営、観光の誘致、歌劇団。これが手塚漫画の色気になっているのは分かる。

昭和初期の宝塚劇場。手塚少年の育った頃。

 しかし、この土地がどう繋がるのかな、と。もう少し山に近いと思っていた。住宅が開かれていて、発展している。これを見ると、SFと色気が同居している。風土が作品に反映している。しかしショックなのは山が近くにないこと(笑)。経済が発展して、大衆が文化を共有する。それは、一人の漫画家の力だけではない。この土地があったからだと思う。

 でも山が遠い。つまり昆虫はどこへ行ったの、と思う。

 こんなヒネくれたことを考えているから、自分は今までこの世界でやってこれたんだろうね。

Q、記念館はいかがでした?

(再び譲り合う二人)

高橋 昭和15年の宝塚の地図が記念館にあって。当時は手塚家の周りは鄙びていたみたいですね。記念館は前に来たときよりコンパクトに見えました。展示が整理されたのかな?

富野 私は期待が大きすぎて、裏切られました。もっとフラットに、作品の原画を並べてほしかった。足りない。昨日はだから怒ってました。

 マンガもアニメも、その展示というのは美術館とは違う。関係者も模索してきたのですが、近年はそれも手馴れてきている。今は進化したそれが、手塚記念館には取り入れられていないなあ、と。

Q、それは記念館の人と話したほうがいいですね。お二人にとって手塚先生とは?

富野 社長と会ったのは、入社して最初の月曜の朝礼。挨拶に立ったのを見て、挨拶できるんだ、と思った。

高橋 話が上手な人でしたよね。私は初めての時は覚えてない。二階半のところが虫プロにあって(「屋根裏だよ」富野)。そこで試写会とかやるんですが、窓から富士山がよく見えた。当時の練馬には高い建物もなくて。入社したのは1月だし、よく見えた。白亜の豪邸で、手塚先生と一緒に仕事ができるんだ、と思ってました。

練馬の手塚邸の庭に作られた「白亜の豪邸」。入社時、富野23才、高橋21才、手塚36才。

富野 どうして入社したか?私はいわゆる就活を全くしていなくて。その時に三行広告を見て応募しました。後にも先にも一度だけ虫プロが出した広告だった。

高橋 私は商事会社に勤めていて。その時、ある友人がTV会社で働いていたのですが、それを見て、ああ、自分もやりたいことをやりたいな、と思って会社を辞めたんです。先のこと全く考えず。当時は経理の仕事をしていました。私は商業高校に行っていて、簿記一級を持っているんです。自慢です。それで虫プロに事務で応募したんです。けど、落ちてしまって(笑)。それでもう一度、今度は絵かきで応募した。面接で、才能の片鱗が見える、と言われた(笑)。けど、アニメーターの人は大変だよ、大量に絵を描かないとけないって聞かされて、そりゃ無理(笑)。じゃあ演出に回って、と。そこで一年制作をやった。制作は、アニメ業界の血液のような仕事です。それから、『W(ワンダー)3』で初演出。見よう見マネでやってました。今は大学で教えているので、改めて学び直しましたよ。

富野 それでW3をやれてたの?(笑)

高橋 会った頃から富野さんは変わらないね(笑)。あの時は、演出を舐めてました。コンテも、一話につき100カットくらい描くのだけど、だいたい二週間くらい時間をくれる。けど初めての時は全く描けなくて、あと三日くらいしかなくなってから急いで描いた。それを手塚先生に持って行った。当時の虫プロ漫画部は螺旋階段を上がった中二階で手塚先生が仕事していて。そこへヒモの先につけた原稿やコンテを先生が引き上げて見る。僕のコンテも上がっていったら、それが上から降ってきた。「全部描き直してください!」。あとにも先にも、手塚先生の大きな声を聞いたのは、あの時だけだったね。優しい先生でしたよ、私にとっては。

「上から『全部描き直してください!』ってコンテをばらまかれて。用紙がヒラヒラ~」

富野 演出部では私のほうが先輩。私はアトム班に居続けさせられていた。『ジャングル大帝』など新作にはベテランが行っていた。虫プロには「アニメーターに非ずんば人に非ず」という文化があった。大卒は制作進行しかできない、最下等の存在と思われていた。だから、動画・彩色・撮影に怒られないようにしながら仕事していく。撮影班が一番怖かった。

 『アトム』の放送が二年目に入った頃、スケジュールを見たら、二ヶ月後・三ヶ月後のコンテが足りなくなるのがわかる。そこで、シナリオ無いのにコンテを切った。「大卒が舐められっぱなしになる、先に絵コンテ切っちゃえ」と。入社して四ヶ月目の時。それを制作部に持って行って。コンテあるから、って。先輩がそれを手塚先生に見せて。そうしたら先生に呼ばれて、先生の本宅にある漫画部に初めて行った。「富野氏、後半どうなります?」その段階で前半しかできてなかった。でもシナリオ無いし。だからでまかせで「主人公が後半で死んで」「やはりそうなりますよね」。でOKが出た。

高橋 会社がヤバくなった時、不渡りが出そうにでどうしようもなくなる時がある。その時に私、お金持ってるよ、と来る人がいる。あなた、そのやり方と同じだ。

富野 それがつけ目じゃん(会場、爆笑)。スケジュール振り回した、俺の勝ち。恨まれたね~。大卒で演出。もう、アニメーターに恨まれた。けど、良いアニメーターはジャングル大帝に行っているし、そっちには高橋良輔がいるし。「俺は残務整理かよ」と。

高橋 そうですよ。あなたはそこにいたの。『W3』は精鋭、と言われていた。私はそこでネコをかぶって逃げていた。『ジャングル大帝』に行ったら使われまくるだろうから。

富野 でも僕には『アトム』だけ!

高橋 つけこんだツケだね(会場、笑)。

富野 けど、それで「俺が一番『アトム』の演出したんだぜ」と言えるようになった。

高橋 それは羨ましい。僕は『アトム』の演出をしていないから、やりたかった。

富野 『ジャングル大帝』は打ち切りになったけど、『アトム』は続いていた。それでアニメーターの目が少し変わった。自分もその頃には演出チーフっぽいことをしていたし。けど徹底的に嫌われました。虫プロから離れても、その時の呪いは感じられた。その後『トリトン』でもやっちゃったし。手塚原作を全否定。

『海のトリトン』(1972年)。監督・富野善幸、プロデューサー・西崎義展。

 ファンという人たちは困ったもの。視野が狭くて。イイ大人になれないよ。(立ち上がって)皆さん、バカな大人なっちゃダメよ。もうみんな大人みたいだけど。

高橋 子供はいないね。

富野 子供がいたらこんなことは話さないよ。……歌舞伎座に行ったら、皆イイ年した人たちが綺麗に着飾って歩いている。あれを見て「あれはただのファンだ」と思った。宝塚も……あ、この話は角が立つ。ダメよね、こういう話。

Q、そこで終わってホッとしました。その頃は、お互いをどう見ていました?

高橋 自分は富野さんを尊敬していました。自分はバリバリ仕事をするほうじゃなかったから。あっちは眼中になかったんじゃないかな。僕は、競争心は無かったので。手伝ってもらってもいたし。僕は手塚先生の弟子なんです。あの人は巨人なんです。あの姿を見ていると、ほかの人に嫉妬とかは無くなっちゃう。

富野 それは先ほど話したファンの心理と同列。手塚信奉者がアニメーターの中に多くいた。手塚のコピペをしているようなヤツはクリエイターじゃない、と思った。

 僕も手塚先生の『アトム』は認めるし、『来るべき世界』は40代、50代で読んでも凄いと感じる。しかし、手塚をまるごと評価はしていない。勿論、あの生産物量は認めざるを得ないけれど、それを全部を認めていてはクリエイターではない。演出をやろう、と思った時、信奉者ではできない、と思った。それで『トリトン』をやったら、虫プロから仕事をもらえなくなった。よく言えば、自分は生真面目なんだろうね。どうしよう。テキトーにすべきなのよね。

高橋 テキトーです(笑)。コピーは問題だけど、インプットしないとアウトプットはできない。手塚先生は勉強しまくってましたけど、自分はしなかった。だから先生から「あなたも作り手なんですから!」と言われて。それで勉強用に10万円くらいの制作費を渡された。当時月給が3万円くらいの時に。じゃあ何を勉強しようか、と思った時に、人のアニメ作品は見ないようにしよう、ニュースを見よう、と思った。富野さんがオリジナル作品でガンダムを作った時に、僕は話を作る、という方向に特化していった。富野さんは自分で話を作るのに演出家と言っているけどね。私は話を作っていたので、一心に仕事に集中することができた。もっとアタマが柔らかければ、インプットした情報を噛み砕いてできたのだろうけど。私は量も足りなかったしね。

 ……後編に続く。

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