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番外小説 龍馬暗殺(完結)

(2023年10月22日から11月15日、インスタグラムで連載しました。)

壱 龍馬モノローグ

慶応三年十一月。早朝。京。
木屋町三条、酢屋の店先に、大男が現れる。
くたびれた着物。桔梗紋。革靴。
大きく伸びをして、通りを眺めわたし、肩をゆすって歩き出す。
坂本龍馬である。

大政奉還は先月の十四日。もう、半月前になる。
大政奉還への道筋を、表に後藤象二郎を使いつつあるときは黒幕的に、またあるときは永井尚宗等幕臣らへの説得役として前面にでて推し進めたのは龍馬であった。
「ひと仕事、終えたっちゅうところかいのう」
龍馬は、大政奉還が成ったあと越前に向かい、新政府に必須の財政政策担当として、三岡八郎をスカウトした。三岡が来て、新政府の財政政策の方針が固まれば、新政府はおおむね安定した船出ができるだろう。
政府の要員もまだ明らかではないが、龍馬が想定しているような幕藩共同での政府発足にそれほど大きな支障はないだろう。
これはいささか楽観的過ぎるだろうか。いや、薩長とて、いまさら戦争に訴える必要もそれほど感じてはおるまい。勝てるという確信もないだろう。
「もう一息っちゅうとこじゃあ。あとは後藤等がうまくやるじゃろう」
龍馬は海援隊に戻ろうと思っている。もう、政治は終わった。新しい時代は、商売で生きていく。そして、世界へ出るのだ。先般、西郷や陸奥らの前でも、そう宣言した。
しかし、龍馬の心の中には、これからの海の商売の高揚感よりも、一仕事終えた、安堵感や満足感が大きく占めていた。薩長連合から大政奉還へと、時代を旋回させる大仕事を無事成し遂げたという満足感が。
白刃をくぐり、襤褸をまとって、身一つで周旋してきた。基本的には、脱藩浪人の身分で、だれからも頼まれず、だれからも命じられずに。
薩長連合も、大政奉還も自分のほかだれが思いつき、推し進めていくことが出来ただろう。
出来上がる前の高揚感や裏返しの不安感も嫌いではないが、こうして大仕事が実現してしまうと、少し、疲れたなとおもってしまうのは、俺も歳をとったからかな。
「もう、三十四じゃきに」
まずは、長崎に帰ろう。下関でおりょうを拾って行こう。
長崎に行ったら、グラバーにあって商売の話をしよう。
もう、銃や大砲なんどの武器はいらん。平和な時代になにを商おう。

「まんず、洋行でもして、世界をみてくるかのう」

グラバーもいうておったなあ。
「坂本さん、私は、日本はこれからどんどん発展すると思います」
何故という問いに、グラバーは答えた。

日本や日本人には、ある意味、親近感を感じます。
確かに、貧しく遅れた国ではあると思う。しかしながら、日本人は、西洋人と同じようにある種のポリシーが感じられます。すなわち、自律的な感覚とでもいったらよいのかもしれません。
いってみれば、向上心であり、道徳心であり、謙譲のこころというものでしょうか。
それは、武士のみならず、一般大衆、道端で寝ている乞食にも通じる感覚というものでしょうか。
例えば、皆さま、「尊王の志士」のみなさん。武士は主君に命を懸けるという立場にもかかわらず、主君を捨てて、日本のために戦っておられる。誰に頼まれたのではない、滅私の心だと思います。武士のみならず、日本人全体にその考え方はあるのではないかと思います。
日本が、他のアジアの国々と違って、清潔なのもそのせいだと思います。人々が、謙虚であることもそれが原因であると思います。季節のある厳しい自然環境もあるのかもしれませんが、自然に、神仏区別せずに手を合わせるすがたも、自律的な考え方の裏返しではないかと思います。
私たちプロテスタントは、神に認められるために自らを律します。みなさんも同じではないかと思います。イギリスは王国ですが、議会が国を支配する民主主義政体です。アメリカはまさに国民主権の民主主義政体です。みなさんは王政復古を目指しておられますが、日本人は、民主主義政体が可能な国民だと思います。これは飛躍かもしれませんが、単なる君主国ではまとまらないのではないかとも考えます。
その意味で私は、イギリスやアメリカと同様に、今後、日本がどんどん発展していくだろうと期待しています。

龍馬にはそれがグラバーのお世辞ないしは贔屓(ひいき)の引き倒しのようにも聞こえた。それで、つい反対の質問をしてしまった。
「では、日本人の弱点はどうお考えでしょう」
そうですね、グラバーはしばらく天井を見上げて考えていた。
長州征伐、ご記憶ですよね。その原因となった、長州の京への進撃をおぼえてられますか。私は、高杉さんにその時のことを聞きました。なぜ勝てもしないのに、京へ進撃したのですか。高杉さんは言いました。
「時がそれを望んでいた」
高杉さんは詩人です。あまりにも誌的な表現です。しかし、よく聞いてみると、時ではなくて人です。尊王攘夷の掛け声に、長州人全員が狂気のように京へ進撃したのが原因のようです。そうなったときにはもう、勝ち負けは関係ないのです。負けがわかっていた高杉さんや桂さんにも、そうなっては手も足もでない。立ちふさがれば、むしろ、斬られてしまう。
その前の下関での砲撃事件もそうです。長州では、武士のみならず、武家の妻たちまでが、攘夷のために台場を築いたりしたそうです。農民や商人、力士まで同じように志願して奇兵隊のような諸隊ができました。これを革命と呼ぶ人もいるでしょう。しかし私は、少し怖く思いました。そのとき、下関で台場を設計した蘭学者は負けがわかっていたので、皆に、それを言ったそうです。そして、「腰抜け」として暗殺されたのです。
将来、日本が相応の国力をもったときに、勝ち負けに関係なく、みずからの主張を、強引に主張しつづけることはないでしょうか。普段はおとなしく、慎重な人たちが、一斉に強硬派になって暴走することはないでしょうか。
おそらく、そのとき、日本は初めての挫折を経験することになるでしょう。

そのようなことが起こるだろうか、龍馬には、まず日本がそこまでの国力を持つ日自体が、まだ、想像の外にあるように思えた。それは、まだまだ、朝日の昇る場所のように遠く、そこに近づくのには、永遠に時間がかかってしまうのではないだろうかと。
長崎に帰ったら、もう一度、グラバーに会おう。そして、洋行すれば、世界から日本が見えるだろう。それから、次にやることも見つかるだろう。そうなれば、もう一度高揚感が出てくるだろう。それにうらはらの不安感や焦燥感も募るであろうがと。

河原町を下り、近江屋前を通る。
あんまり心配することもないが、ここに暫く身を潜めるか。酢屋よりはましじゃろう。
河原町の土佐藩邸に着いた。
中岡はいるだろうか。白川の陸援隊から出てきていればよいのだが。

弐 中井庄五郎 ~ 草莽の志士から


十津川郷士の中井庄五郎は、土佐藩邸に向かっていた。
十津川郷士は、天領の大和十津川郷出身の郷士たちで、京に陣屋を設け、御所の警護等に任じられている。
中井は、二十歳。数年前から京で志士として活動しており、坂本龍馬とは懇意にしている。
田宮流抜刀術の達人。髭面の大男だが、まだ、あどけなさの残る素直な表情。
数日前から、龍馬を探していた。
中井は龍馬が好きだった。
龍馬と会ったのは数年前だ。少し話をしただけで、旧知のように打ち解けた。すでに剣客として、志士として龍馬の名前は上がっていた。が、龍馬は少しも偉ぶるところはなく、無名の十津川郷士と酒を酌み交わしてくれた。
龍馬には、露骨なところもある。つまらない話にはつまらないというし、興味のない話にはそっぽを向いている。しかしながら、これは面白いと思ったことや、誰かが真摯に自分の思うところを語る時には、とことん聞いていた。笑顔を浮かべて。
もともと、千葉桶町道場、北辰一刀流の免許皆伝者で、その剣名は江戸中にとどろいていた。今でいう大学スポーツのスター選手に近いであろう。他流試合で知り合う他の道場のエリート剣客、中には大藩の有力者の子弟も多数いるが、これらとの交流も、のちの龍馬の活動の基盤となっている。
一方で、もともと龍馬は、土佐藩では郷士という最下級の身分の侍である。剣名で名の知られた人物ではあっても、身分が低い立場の者の気持ちはよくわかる。
誰からも龍馬は好かれるというが、こういうところがその原因であろう。

ちなみに、現代風に龍馬の履歴を描くと次のようになるだろう。
有名私立大学「千葉道場」卒業後の龍馬は、就職した「土佐藩」を退社。学生時代に懇意となっていた幕臣勝麟太郎の協力を得て、幕府をメインスポンサーとするベンチャーである「神戸海軍操練所」の創業に参画。
しかし、海軍操練所は、スポンサー内の勢力争いの結果、破たんに追い込まれた。
龍馬は、スピンアウト的に、薩摩をスポンサーとする「亀山社中」を設立。社長として腕を振るったが、海難事故等、必ずしもうまくいっていたわけではない。しかし、その実績に目を付けた土佐藩の出資を得て、亀山社中を「海援隊」に改組。土佐藩傘下のベンチャー企業海援隊の社長として、実質的に土佐藩に復帰している。
亀山社中からは海運がメインの仕事ではあったが、その間、個人の資格で、薩摩、長州、土佐の政治顧問として各藩の重要人物と意見を交換。フリーの立場を生かし、薩長同盟や大政奉還につなげてきた。
学生スポーツのエリート選手としての、幕臣や各藩の指導層との交流。諸国の脱藩浪人たちとの分けへだてのない交流が、彼の事業の基盤にあった。また、脱藩後、そういった関係をつかってベンチャービジネスで名を挙げたことで、土佐藩に復帰することができたといえる。

龍馬は、硬派な体育会イメージと同時に、新しいもの好きで、軍艦、洋式銃、靴などポップな、先を行っているイメージを身に着けていた。
中井のような、田舎の剣客(今なら、スポーツ競技の県大会レベルか)を、ひきつけるすべてを龍馬は持っていた。
「死んでもらっては困る。あいつは俺たちの希望だ」
「あいつのために、俺は死んでも良い。身代わりになってもいい」

中井が、妙な噂を聞いたのは、昨日。白川の陸援隊屯所でだ。
某薩摩藩士が、龍馬を斬る者を探しているという。
「なんだ、それは?」
「龍馬好き」である中井には、その言葉が信じられなかった。
確かに、大政奉還は薩摩の討幕の企てに水をさしたかもしれない。だが、薩長盟約以来、薩摩は、龍馬に一目も二目もおいているはず。薩摩を率いる西郷が、まさか、そんなことはするまい。
とは、思ったものの。心配になって、白河の陸援隊屯所を飛び出してきてしまった。

龍馬に最後にあったのは、今年の夏ごろだ。
「それは、龍馬さん、外国人からみても、日本人がえらい」ということですか。
龍馬がグラバーという英国商人に聞いたという話を中井にしたときだった。
「それは、うれしいことですね」
「それはそうやが、日本人はえらいというのは、ちょっと違う」
「えっ」
「『勤勉である』ということは事実かも知れんが、それをもって日本人はえらいと思ってはいかんと思うぜよ。『良い』『悪い』ではなく、それは、『違う』ということにすぎん」
よくわからんなというように中井はうなづく。
「それが証拠に、同じ日本人でも様々やろう」

『外国人がそういうから』というのも違うと思う
だいたい日本人は、人の意見に左右されすぎや。
酒の飲み方、何を食べるかというような事から、政治のことまで、みんな横並びや。
グラバーも日本人は同じ方向に走り出すと怖いといっておった。
それは日本人の悪いところやと思うきに。
「龍馬さん、そこは『良い』『悪い』なんですか」
中井が笑いながら突っ込んだので、龍馬も噴き出した。
「あっ、そやな、中井に一本取られたな」
底抜けに笑う龍馬。
中井は、やっぱりと思う。
こいつは俺たちの仲間だと。
とても偉い男だけれども。

中井は結局、龍馬を見つけられなかった。
龍馬の死後、龍馬の復仇戦に中井は参加した。
陸奥宗光が率いた海援隊、陸援隊の残党たちと共に、紀州藩の三浦休太郎を襲撃したのだ。京、天満屋。三浦には新選組が護衛に付いていた。
中井は闘死した。
復仇先は間違っていた。
しかし、本人としては、龍馬に殉じたまっとうな死だった。

参 暗殺者たち ~ 見廻組 佐々木只三郎


佐々木只三郎は、最近、いらだっていた。いや、いらだっているのはずっと前からだ。
佐々木は京都見廻組組頭(与頭)。三十五歳。長身。神道精武流小太刀の名手。
表情が常に暗いせいか、顔色が悪く見える。
佐々木に会った者は、皆、威圧感を感じるとともに陰気な気分になる。
なぜいらだっているのかは、彼自身にもにもよくわからない。が、要するに「なぜ俺は認められないのだろう」ということのようだ。
卓越した剣技。見廻組を一人で支える実務能力。あの討幕の巨魁であった清河八郎を暗殺した実績。
これをもってしても、見廻組の頭(かしら)にすらなっていない。頭は、大名か大身の旗本だ。 

確かに俺は、会津藩の出身で、御家人の養子になった。格が違うというのだろう。
しかし、今、見廻組を動かしているのは、実質的に俺だ。そして、会津藩も京都所司代も自分をそのように遇してくれている。
先般、組の若い者が、幕府歩兵隊と「もめ事」を起こした。歩兵組が鉄砲を持って数百人集まって騒いだが、俺一人で話をつけて解散させた。
俺だって、清河を殺した佐々木として、少しは知られているのだ。
前の見廻組の頭(見廻役)の堀岩見守は、あろうことか、昨年、俺について幕閣に文句を言っている。佐々木が組を「わたくし」していると。当たり前だ。大名になにが出来る。出来ないから、俺がやっているのだ。事実上の頭目として。
堀は辞任して江戸へ帰ったが、ろくでもない野郎がまた頭として赴任してきやがった。小笠原河内守、岩田織部正。どちらも役立たずの旗本だ。
近藤勇を見ろ。最近、大番組頭という大名格の幕臣になったが、もうずっと前から新選組の局長として組織に君臨している。前から大名並みなのだ。
皆、俺が、会津出身の田舎者だと思っているのだ。

そこに来て、大政奉還だ。
こともあろうにそんな企てを裏から進めていたのは、坂本龍馬という奴らしい。
これも、さる幕閣から、入った情報だ。
坂本は、例の清河と同門の北辰一刀流。江戸での活躍は聞いている。俺とは違って、剣では知らないもののない達人だ。皆いう、大男で明るい男だと。清河同様、皆から好かれる男なのだろう。しかも、勝麟太郎や永井玄蕃守ら開明派の幕閣とも懇意だという。
なぜだ、討幕の巨魁なのに。
一方、討幕を図る薩長に対し、土佐が大政奉還で待ったをかけたという説もある。
現に、某幕閣からは、坂本を斬れという指令が来ているのに、一方で少し待てという指示もある。
坂本は敵か味方か。
いや、そんなことは、俺には関係ない。
坂本と俺とは違う。実力はあるのに、同じようにやっていても、坂本は陽で俺は陰だ。
坂本と違い、自分が陰気で人を引き付ける魅力に欠けるのではないかという屈折した思いが、この男にはある。その思いが、佐々木をさらに暗くしているのだ。
だから、斬らねばならない。俺が俺であるために。
この男が、坂本を斬る動機はそれで充分だった。
「見廻組を挙げて、坂本を追う」
しかし、見廻組。なんて名前なんだ。京を見廻るから見廻組か。
しけた名前だ。
こんな名前を付けているから、幕府は薩長や土佐に付け込まれるのだ。
新選組の凛とした響きを見ろ。
坂本を追おう。何としても居場所を見つけて斬ってやる。
そうすれば、世の中も「見廻組」を見直すだろう。
世間には公表できない。
しかし、歴史には残るかもしれない。

結果として、この、佐々木の考えは正しかったのかもしれない。
佐々木只三郎は「龍馬を斬った」男として歴史に刻まれる。
そして、その男は、「見廻組」を率いていたと。

四 暗殺者たち ~ 高台寺党 御陵衛士 伊東甲子太郎



伊東甲子太郎は、近江屋に向かっていた。

昨日、薩摩藩邸で大久保一蔵に出会った際、坂本がそこにいると聞いたのだ。

伊東には、大久保がその話題を出した以上、自分に何かを求めているに違い無いと思えた。

薩摩藩は伊東にとっては、彼が率いる高台寺党「御陵衛士」のスポンサー様だ。彼らの意にそうよう、先回りして動かねばならない。

まず、考えたのは、「守れ」という意味ではないかということだ。誰に聞いても、坂本は討幕派の巨魁だ。しかも、大久保は、藩邸にいればいいものを、わざわざそんな危ない場所にいると、苦情めいた言い方をした。すなわち、自分に、高台寺党御陵衛士に、坂本の護衛をしろというなぞか。

しかし、大久保の話はそれで終わらなかった。実は、大政奉還になったために、次の出方が難しくなったというのだ。単純に、幕府が無くなって、良い方向に進んでいるのかと思えば、どうやら薩摩は大政奉還に不満のようである。土佐に、坂本に主導権を奪われたのかもしれん。大久保は最後まで慎重に言葉を選んで話をしていたが・・・。

そうか、むしろ坂本を暗殺(や)れということかもしれない。

とりあえず、訪ねてみようというのが、一晩考えた伊東の結論だった。討幕の巨魁、大政奉還の立役者、まずは会って、「よしみ」を通じておこう。行く行く「よしみ」によって、なにか良いことがあるかもしれない。

さて、会って話すことだが、やっぱり向こうに何か有効な情報を持っていかないと、なにしにきたかと思われるだろう。であれば、やはり、生死の事。「新選組が狙っているぞ」だろうな。確かに、狙っているだろう。討幕の巨魁だ。それに嘘はない。加えて、新選組の内情をいくらか話せば、向こうも恩に着るだろう。よし、その手で行くか。

供には、藤堂平助を選んだ。藤堂は、坂本とは北辰一刀流の同門で顔見知りだという。悪いようにはせんだろう。

伊東甲子太郎は、江戸の生まれで、道場と塾を開いていた。新選組の何度目かの徴募のおり、声がかかって弟や塾生とともに入隊。伊東は総長として、局長近藤勇の顧問のような立場にあった。が、新選組が佐幕派に肩入れし、ついには幕臣に取り立てられるタイミングで、薩摩に通じて分派。実質的に新選組を裏切り、薩長に寝返った。薩摩の庇護のもと、伊東の組織した高台寺党は御所から「御陵衛士」を拝命し、いわば薩長側新選組を組織して、その頭目に収まっている。

道場で鍛えた引き締まった身体。三十四歳。背が高く、青白い顔。鋭利だが冷たい表情。本人は気が付いていないが、この男には集団の長に不可欠の、部下に信頼感あたえられる資質は少ない。

大政奉還直後の今、伊東が思っているのは、

「きわどいところだったが、よくやった」

という事だった。

「危ないところで、新選組と心中するところだった」と。

 

予想に反して、坂本は愛想が悪かった。

そもそも、武士としてこのように行儀の悪い男にはあまりお目にかかったことはなかった。せっかく、新選組が貴殿を狙っているという情報を持ってきてやったにも関わらず、横を向いてほとんど話もしない。ごろんと横になったりもする。馬鹿にしている。たまたま、来ていた中岡慎太郎が、むしろ気をつかって、代わりに話を聞いてくれていた。

途中で、おもむろに坂本が口を出した。

「おまんさは、どういうお人で」

「先ほど、申し上げたが、高台寺党で御陵衛士を拝命しております伊東と申します」

思わずけんか腰で、言い返したが、坂本はそのままこちらを見ている。それでは足りないとでもいうように。思わず、それ以前の経歴をいう羽目になった。

「拙者は、江戸にて道場と塾を主催しておりましたが、新選組の徴募の誘いがあり、門人とともに「一時」新選組に参加しておりました。新選組は「尊王攘夷」の組織であるとの触れ込みでありましたので・・・。拙者は新選組の局長に次ぐ「総長」の地位にありましたが、先般、局長近藤勇とたもとを分かちました。拙者は、かねてより尊王攘夷を信念として生きてきました。決して、裏切ったわけではなく、新選組が尊王攘夷にまい進するのではなく、幕府の単なる「一組織」に組み込まれたからでござる」

言い訳めいた、加えて、自分の身分を少しでも大きく見せているかのような説明であることが、自分にも感じられた。坂本も自分の事は十分に知っているだろう。知っていてあえて聞いているのだ。

坂本は黙っている。

黙っている坂本がどんどん大きくなっていく気がした。一方で自分はすうっと小さくなっていく。坂本の細い眼がさらに細くなる。
 
この男にはかなわない。斬れないだろう。おそらく俺には。自分がみじめに思えた。

ほどなく辞去した。

格子戸をくぐり、表へ出た伊東は、そのまま通りを下り始めた。

藤堂平助が後ろへ続いた。伊東は黙ったまま何も言わない。どうもいつもの伊東ではない。

藤堂が声をかけようとしたとき、伊東が立ち止まり、そばの辻番所の前の天水桶の前に転がっている乞食を見つめた。どうやら向こうもこちらをみている。

そして、伊東は深くうなずいた。

懐から懐紙を取り出し小銭をくるんで、乞食にほうり投げる。

伊東は再び南に向けて歩き出した。藤堂が振り返るともう乞食はいない。

しばらく歩いてから、藤堂は思いつくまま声をかけた。

「伊東先生。もしやあれは新選組の・・・」

「いうな。われわれのような外れ者は、こうでもせんとな。今後、世間はどちらへ転ぶかわからんのでな」

こう言ってしまうと、少し溜飲がさがった。俺には斬れんが、新選組には斬れるだろう。坂本を。大久保の真意はわからんが、これでいいだろう。

坂本の「よしみ」は得られなかった。むしろ、俺のことを馬鹿にしている。正直、坂本にはこの世から消えてもらいたい。

一方で、こうも思った。

「本当は、俺も、ああなりたかった・・・。遠回りしすぎたな」

世に出る機会は、浪人にはそうは無い。坂本だから出来たのだ。

絶望的な思いの中、わらをもつかむような気持で考える。

「いや、これからかもしれない」

新選組にはこれで恩を売った。これをもとに、再度、局長近藤勇と話をする機会を得よう。自分が世に出るためには、やはり新選組を丸ごと討幕派に寝返らせる必要がある。そうすれば、新政府ができたときに、討幕派の一大勢力として発言ができるかもしれない。
坂本め、俺がお前にとって代わってやる。
 

坂本は死んだが、伊東も長くはなかった。
伊東は近藤との会談に臨み、帰路、新選組に襲われて死んだ。それは、坂本が暗殺されてから三日後、十一月十八日だった。


五 新選組胸算用~土方歳三




土方歳三は、くしゃくしゃになった懐紙を手元で広げていた。懐紙には「坂龍」の二文字。

監察から報告を受けていた。伊東甲子太郎が新選組の密偵の手先に、坂本龍馬の潜伏場所を伝えてきたと。

不動堂村の新選組屯所。土方の執務室。庭に面した縁側に座っている。

新選組の屯所は、結成当初の八木家から、元治元年西本願寺へ移転。そして、今年の六月、この不動堂村本陣へ移ってきた。三千坪を越える広大な敷地に大名邸宅並みの屋敷を構えている。同じころ、局長近藤勇をはじめ隊士は幕臣に取り立てられた。

土方は、しばらく空をみながら、伊東が何故、坂本の居場所を連絡してきたのか考えていた。

役者のように整った白い顔。二重まぶたではあるが、つめたい目。表情は常に変わらない。三十三歳。

監察の山崎丞(やまざきすすむ)が庭先に立っている。柔らかい篤実そうな顔。

監察とは、新選組の諜報担当だ。

土方の白い顔をうかがうように聞いた。

「何故、伊東は・・・」

土方と同様、山崎もそれが気になっていたようだ。

伊東は、新選組を離れ倒幕側に寝返った男だ。

坂本は倒幕側の大立者で、新選組としても前から、その動向を追っている。

一部の幕閣が、坂本を殺せと命じているという噂も聞こえている。いまのところ、新選組には具体的な指示はないが。

その居場所をこちらに教えるということは、ある意味、伊東は敵に塩を送っているようなものだ。・・・いや、むしろこちらに科(しな)を作っているのかもしれない。

伊東の元に送っている間諜の斎藤一は、伊東が勢力拡大にやっきになっていると報告している。薩摩のもとでは、たかだか数十名の浪士では大した発言力も無い。

大政奉還がなされた今後の情勢を踏まえて、もう一度、新選組にゆさぶりをかけに来るのかもしれない。おまえたちも、倒幕側に来いと。

土方としてはそんな考えはさらさらないが、伊東は、局長近藤勇に本件をきっかけに接触を図ろうとしているのかも知れない。

ただ、そういった話を山崎にする必要はない。

しかし、土方にはもっと気になることがあった。

「伊東が、謀略を仕掛けてきたのかもしれない」土方はいった。

山崎が怪訝そうな表情で聞く。

「坂本を倒しに行ったら、伊東一派に完全包囲されて、皆殺しにあうってことですか」

「いや、そういうことじゃなくて。そもそも、今、坂本を捕らえたり、殺害することにどんな意味があるのかだ」

「坂本は、倒幕派の巨魁ですよ」

「わかってる。しかしな、実は、奴が大政奉還の黒幕っていう話もある。土佐の山内容堂が、将軍に大政奉還を建白した裏で、坂本と土佐の後藤象二郎が筋書をかいたらしい」

「なんですって」

山崎がいつになく、度を失ってこたえた。

「だったらなおさら斬るべきでしょう。坂本さえいなければ、上様が大政を奉還することもなかった」

「一方で、坂本は大政奉還を周旋したことで、薩摩や長州から恨みをかっているともいわれている」

「なんですって」

「薩長は、倒幕の名目を失ってしまったと」

「ということは・・・」

「そうだ。俺たちに始末させようとしているのかも知れない。伊東ではなく、誰か、頭のいい男が、どこかにいるのかもしれない。当の坂本見たいにな」

土方は、坂本に会ったことはない。しかし、話はいろいろ聞いている。薩長同盟や大政奉還の裏で、芝居を執筆(か)いていた男らしいと。土佐の郷士という低い身分の出で、土方からみても、まぶしいほどの大仕事をしている。

きっと、いい男なんだろう、皆に好かれる。きっとそういう男なんだろう。

・・・俺はそうじゃない。が、俺も相応にやっている。

土方は、豪農とはいえ百姓身分の出身だ。腕は立つといっても、流派は天然理心流、場末の道場だ。しかし、それがすでに幕臣。新選組は今や、隊士約二百人を越える大名並みの組織となった。土方は、そのナンバーツーに君臨している。

 

新選組、いや、土方の成功は、今でいえば、無名の地方大学野球部が、神宮球場の大学選手権で優勝したようなものだろう。土方は、のんびり型の監督を励まし、厳しくチームをまとめてきたキャプテン。独創的な練習方法や組織力でチームを強化。試合では、奇襲を仕掛け、きわどい勝利を勝ち取ってきた。

しかし、将来、野球で食べていけるでもなし、これから社会に出ても、所詮は三流大学出身者。正直、協調性や包容力などの人間力の欠如については自覚していて、どこか、最後は諦観している複雑な精神面。というようなところであろう。ただ、そういう人物は、人に内面をさらすことは極度に嫌う。鉄仮面のように鬼土方を貫いているのだ。
 
「坂本というのは大した奴だ」

土方はいった。

「どういうことですか」

山崎が眉をひそめて聞く。

「幕府をすうっと無くしてしまったってことだよ」

「幕府がなくなったら新選組もなくなってしまうのではないですか」

「そうかもしれない」

「なんですって」

「だが、戦国時代の幕開けかもしれないぜ」

「ええっ」

「応仁の乱よ。大騒ぎの間に、俺たちはもっと大仕事ができるかもしれないってことだ。そもそも俺たちは天下の浪人。つい先だって幕臣にしてもらったが、失うものは無い。望むところよ」

そういう時代が続けば、まだ、俺にも機会があるかもしれない。身分や出自や剣術道場の格なんかに関わりなく、実力のみで戦える場が・・・。

「そんなに上手く行くんですか」

「わかっている。そんなに簡単でもないだろう。それから、混乱もそれほど長くは続かないかもしれない」

土方は、もう一度、空を眺めた。少し話をしすぎた・・・。大政奉還以来、平静を装いながらも、心の中ではいろいろな思いが駆け巡っていた。坂本の話をきっかけに、少し噴き出してしまった。

「その件は、近藤さんに聞いてくれ。もし、聞かれたら、俺の意見も伝えてくれ。謀略のおそれあり、とね」

山崎は、局長の近藤勇に相談した。

近藤は土佐と聞いたとたんに、及び腰になった。そして、最後にこういった。

「れっきとした土佐藩士を斬るわけにはいかんだろう」

近藤は、坂本は知らなかったが後藤象二郎には面識がある。今、土佐を相手に事を構える覚悟はなかった。大政奉還で動揺しているのは、まさに近藤で、せっかく幕臣になった自分がこれからどうなるのかさっぱりわからないのだ。

報告を聞いた土方はいった。

「妥当な判断だ」

いちおう情報は、見廻組に回しておくことになった。未確認の情報としてだが。

 

六 峰吉 ~ 市井の眼



菊屋の峰吉は、坂本龍馬のために軍鶏(しゃも)を買いに行った。

中岡慎太郎が来ることになっている。軍鶏鍋をするらしい。

帰り道、突然、雨が降り出した。構わず歩いていたのだが、だんだん激しくなって、酒屋の軒先で、雨宿りをした。

軍鶏を抱えたまた、ぼんやり通りをながめた。

雨の中、数人の男たちが大八車を押して、通りを進んでいく。それ以外の人影はない。

先ほどの喧騒が嘘のようである。

何度か、雨の中、駈けだしていこうかと考えた。だが、別に急ぐわけではない。

雨は軒から流れ落ち、通りにあたって跳ね返る。少しづつ水たまりができつつあった。それを見つめながら、ぼんやり考えた。

坂本さんは時代が変わるといった。

時代が変わると、どうなるのだろう。

軍艦。開国。異人。ミカド。

どれも、彼には、実態のわかないものだった。

京に住んでいるものはだれも、変化というもの自体が、実感の外にある。

「好きなことを、したいことを、すればよい」

というのが、坂本の口癖だった。そして、誰かが「こういうことがしたい」というのを喜んで聞いていた。

しかし、自分は何をすればよいのだろう。

大阪に行って、軍艦をみれば、わかるかもしれない。きっと、長崎に行けばもっと。

時代が変われば、自分はどうするのか。坂本さんは、もう海援隊に帰って、商売をするといっていた。役人にはならずに。

自分も、連れて行ってくれるだろうか。しかし、海の商売というのはどんなものなのか、彼には、それも想像がつかなかった。

自分は今年十九歳だ。坂本さんは三十四歳。自分も三十四歳になれば、坂本さんのような天下の名士になれるのだろうか。

坂本さんは、商売で名士になったわけではない。剣客で、薩長連合と、大政奉還の発案者だ。

自分には、そんな仕事はまわって来るまい。職人の息子に生まれて、本屋の養子に入った自分には。

彼は、大政奉還当日の、坂本の笑顔を思い出した。会心の笑顔だった。男がもう、死んでもいいと思った表情のように思えた。

同時に思いだしたのは、実家の職人の父の笑顔だ。かんざし職人の父が、夜なべ仕事の後、めったに飲まぬ酒を飲んで、自分の作品に見惚れていた。

俺は、何をすれば、あんな顔で笑えるのだろうか。

坂本のところに集まってくる男達の顔は、大政奉還の後、なぜか皆、悄然としているように見えた。幕府打つべしだった彼らの矛先が、消えてしまったからだろうか。

土佐や薩長の藩士はまだ、希望のある笑顔だったが、陸援隊の浪士や十津川郷士のような後ろ盾をもたない連中は、なにかよりどころを失った、迷子のような様子に見えた。

いつの間にか、雨はあがっていた。

我に返って歩き出す。

七 暗殺



近江屋から少し離れた居酒屋。

佐々木只三郎は見廻組の隊士を集めていた。

暗殺者は七人。

少しならいいだろうということで、酒を飲んで時を待っている。

「なぜ新選組は情報をこちらに回してきたのか」

佐々木はそれが気になっていた。

新選組には、坂本龍馬を斬れとの指令が来ていないのか。

なにか、新選組には坂本についての情報があって、斬ることを躊躇しているのか。

その情報は何故、見廻組、いや俺には来ないのか。

ひょっとすると、新選組や他の誰かが俺を嵌めようとしているのではないか・・・。

とりとめもなく、頭の中を雑念が渦巻く。

そこに、隊士の一人が聞いてきた。

「組頭、坂本龍馬という男は、どんな奴なんですか」

「去年、伏見の寺田屋で奉行所の役人二人を殺した男だ。但し、詳しいことは、俺は知らん」

佐々木はこたえた。刺客が知っておく情報としてはこれで十分だろう。

そこに、別の隊士が発言した。

「なんでも、土佐を脱藩したあと、幕臣の勝安房守の知遇を得ていたそうです。勝が作った神戸海軍操練所の塾頭のようなことをしていたそうです」

「渡辺。なぜそのようなことを知っている」佐々木は驚いて聞いた。

「私の道場に来ていた町人で、薩摩藩邸に出入りしているものから話を聞きました」

渡辺鱗三郎(わたなべりんさぶろう)は、京で道場を開いていた剣客で、佐々木が腕を見込んで見廻組にスカウトした男だった。(維新後、渡辺篤と名乗ったこの男は、この暗殺事件について証言をしている。)

「その後、長崎で黒船を操り、銃の商いを行っていたそうです。実は、薩摩と長州の同盟を仲介したのはこの男だとの噂があります。浪人の身で、なぜそんな大きなことが出来るのかわかりませんが」

今井信郎(いまいのぶお)がいう。(この男も、生き残って、龍馬暗殺の証言者となった。)


「北辰一刀流の達人で剣では有名な男だ。浪人しても名前が仕事につながるということだろう」

渡辺が、さらにいう。

「人物が大きいと聞きます。越前公も坂本を信用して、黒船の商いに金を出したそうです。薩摩の西郷という大物も彼を買っているそうです」

余計なことをと思いながら、佐々木はいった。

「ふん。いい気になって大政奉還なんぞ画策しよった。これが運の尽きと思え」

「組頭」

渡辺がいう。この男はもともと幕臣でなかった分、率直にものをいう。

「これだけの巨魁を倒すということは、先々、我々、危ないですな」

「どういうことだ」

「薩長や土佐が天下を取ったとき、我々はきっと殺されますよ」

「馬鹿野郎。薩長が天下を取るだと。幕府が無くなるわけがないだろう」

佐々木は、立ち上がって渡辺をにらみつけた。

渡辺は落ち着いていい返した。

「もう無いではないですか」

佐々木は絶句した。

大政奉還。幕府はもう無い。自分たち幕臣には、よくわからなかったが、大政奉還とはそういうことかもしれない。

冷たい空気がその場に流れていた。

「もういい。今は奴を暗殺(や)ることだけを考えるんだ」

上からの指示だ。しかし、今伝えることに少し迷った。が、付け加えた。

「わかっていると思うが、斬ったことは他言無用だ」

れっきとした土佐藩士の殺害だ。公言することは出来ない。

しかし、幕府の意思として坂本には消えてもらう。

佐々木は自分のところに来ている、二通の幕閣の指示を思い出す。一通は「斬れ」、一通は「待て」。だが、そこに坂本がいるのだ。佐々木は、二通目を見ていないことにしようと決めた。

佐々木只三郎ら見廻組が近江屋に押し入り、坂本龍馬と同席していた中岡慎太郎を斬ったのは、十一月十五日、夜九時ごろのことであった。


ええじゃないかの雑踏を通り抜けると佐々木は一人だった。

近江屋を出て、しばらく行くとちょうど、ええじゃないかの群舞が通りを埋め尽くしていた。姿をくらますにはちょうど良いと、佐々木以下そこにもぐりこんだのだ。

ええじゃないかの群衆に紛れて、しばらく歩いた。

群衆の中でもみくちゃになり、暗殺者たちはばらばらに散った。

佐々木は、群衆から離れて、一人で歩き出した。

他の者もそれぞれ散っていったのだろう。屯所や自宅へ。

佐々木は自宅の方角に向かった。角を曲がると、もう人通りは無く、路上には闇が広がるばかりである。

不意に、言いようもない恐怖が佐々木を襲い、取り巻いた。

佐々木は駈けだしていた。町を過ぎ、鴨川の土手を登り、草原を駈け下りる。

転げるようにして河原にたどり着く。

胸の動悸が高鳴っていた。龍馬を斬っていたときでさえ、これほどではなかった。

刀を抜き、両手にかざした。二、三の刃こぼれのあと。暗闇の中でも、血糊の後がはっきりとわかる。

坂本と、同席していた中岡に打ちかかったのは、今井と渡辺だった。佐々木が打ち手をそのように選んだのだ。

十津川郷士と偽り名刺を出す。取り次いだ男(護衛の相撲取り)が、二階に上がろうとしたことで、龍馬がいることがわかった。二階に上がる途中で相撲取りを始末した。今井と渡辺が二階に上がる。一息入れて斬りあいが始まったところで、佐々木も二階に上がった。

自ら坂本と中岡に数太刀づつ浴びせたが、大勢はすでに決まっていた。

佐々木は、打ち手を選んだ自分の選択が間違っていなかったと思った。

とどめは刺さなかった。なぜかは自分でもよくわからなかった。坂本は、息はあったが明らかに頭を断ち割られ、死ぬことは明らかに思えた。中岡はそもそも標的ではない。

斬ったのだ、俺は。やつを。

討幕の巨魁。坂本を。

何度も、何度もそうつぶやいてみた。

しかし、清河を斬ったときのような、あふれるような達成感や満足感は無かった。

胸の中は空っぽのような気がした。

非常な疲労感を覚えた。

風が流れ、遠くの人声がただよって来たが、じきにそれは、闇の中に消えていった。

なぜか涙が目じりに流れた。

瀕死の龍馬の姿が目に浮かんだ。それは、佐々木の眼の中で、そのまま自分の死骸に重なっていった。

 

翌年の正月十二日。龍馬暗殺から約二か月後。紀州和歌の浦に停泊していた幕府軍艦上で、佐々木は死んだ。

鳥羽伏見の戦いで銃弾により負傷。長持ちに横たえられ陸路和歌山まで後送されてきたあげくの死だった。


八 龍馬モノローグ



坂本龍馬は、近江屋の二階、階段の前の廊下にうずくまっていた。全身、血だらけだった。

頭から、激しく出血している。

自分が死につつあるのが、はっきり認識できた。

心に浮かぶのは、「悔しい」ではなかった。むしろ、安堵感のような気がする。

「やることはやったきに」

少し、思いあがって、油断してしまったかもしれないが・・・。

「ずっと、ずっと、走ってきた」

思いが、駆け巡って行く。

子供のころの記憶、両親、兄弟姉妹。お龍。道場。土佐、江戸、長崎、そして京。

めぐる思いが最後に到達したのは、日本の事だった。

「わしが走ってきたように、この国も、これから走っていくだろう」

意識が遠のいて行く。

「だが、決して、思いあがってはいかん。油断をしてはいかんぜよ」

視界がぼやけて、行灯のあかりがぼんやりと見えるだけになった。

「心して、進め、日本国よ」

(番外小説 龍馬暗殺 完)




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