もし大学行ってなかったらどうなってただろう

人生の分岐点というのがある。
僕にとっては、大学入学が一番大きな人生の分岐点だったと思う。

僕は中学校まで勉強ができるタイプだった。
今思えば暗記が得意で苦にならないだけで、頭が良いというわけでは無かったのだろうが、
僕は自分が勉強ができることをアイデンティティにしていた。

高校に入り、僕は成績が落ちた。
勉強しても分からないことや、暗記ではどうにもならないことが沢山あって、
僕は勉強ができるわけでは無かったんだ、と気づいた。

学校に馴染めず、抑うつの症状があった僕は、学校も休みがち、あまり勉強にも身が入らず、
大学に落ちた。


そのとき、親とこんな会話をした。

大学行かないのもあれだから、とりあえず近くの私立大学に行った方がいいかな、と僕は言った。

その私立大学はセンターが半分取れてれば入れるくらいの大学で、
勉強というよりはスポーツが盛んな大学だった。

すると親は、とりあえずで入っても辞めちゃうでしょ、と言った。
僕は確かにそうだと思った。

結果、僕は自宅浪人を選び、なんとか希望大学に滑り込んだ。

そもそも一人暮らししながら私立に通えるお金がないからバイト三昧になるだろうし、
やりたいこともない。
スポーツ系のイケイケの集団に馴染めず孤立し、ひっそりと退学しただろう。

こういう時に、とにかく大学に行け、
と親に言われなくて本当によかった。

僕みたいなタイプは、親に行けと言われたからと言い訳して、受け入れるままに何も自分からやらないままだっただろう。
ただ、後述するが大学に落ちてもフリーターになっていただろうから、
高卒になる位ならとりあえず入った方がいい、みたいなのも正解なのかもしれない。
これは本当に判断は難しい。結局、結果論で僕は話してる。

僕は自宅浪人を選んだが、
誰かにこれをやれ、あれをやれとは言われないから、
自分のやる気次第だった。

親に言われるがままバイトをやり、
祖父母に言われるがまま自動車の免許を取った。
既にその時点で半年が経っていた。

模試を受けてもE判定しか取れなかった。

僕は、祖父母の広い家の隅にある部屋で、
社会と隔絶された生活を送っていた。
自分だけ、時間が一旦止まっている感覚がした。

もし大学に落ちたら、ずっと時間が止まったままなのかな?と思った。
だけど、祖父母も流石に2年目は僕を追い出すかもしれないし、父母も僕に対して厳しく接してくるかもしれない。
就職しようにも、僕は高卒で働いていける体力もコミュ力も無く、すぐに弾かれてしまうだろうというのは容易に想像できた。

経済的には国公立しか行けない、
しかも一人暮らしするお金がないから祖父母の家から通える範囲だと、かなり選択肢は絞られた。

僕は高校3年間と浪人の半年ずっと苦しんできた理数系を捨てて、ド文系に方向転換した。

10月からは毎日8〜11時間勉強し始め、
センターでC判定を取り、
二次試験でギリギリ合格に滑り込んだ。

もし落ちていたら、
何もしていない1年ということになっていただろう。
そして、もう1年頑張ろう!という気持ちは僕には無かったから、
本当にどうなっていたか分からない。

とりあえずフリーターしながら、ずっと悩みながら後悔してただろうな。
勉強はできなかった、でもどうにかなったのかも、という後悔をずっとしてたと思う。

振り切れればいいのに、その後悔のままずっと動けない状態を考えるとゾッとする。
結局、何かをやるエネルギーというのが無いと、うまくいかない。

大学に入学が決まると、入学のしおりや沢山の資料が送られてきた。

そこに、入学後の親睦を深めるための合宿や、就職のためのセミナーなどの情報が載っていた。

もし落ちていたら、こういう機会も知ることなく生きていたのか、と思うと愕然とした。

僕はスタディプラスというアプリに勉強時間を登録していて、
時々、浪人生同士で勉強記録にいいねを押したり、短いコメントをし合っていた。
その小さなコミュニケーションが僕にとって大事だった。

その浪人生仲間たちが、希望大学に落ちたり、
画面浪人を決めたということを知った。

僕は恐らく、希望大学以外にとりあえず行った場合、
仮面浪人か、資格勉強か、
とにかく何かしらの方法で、「遅れ」を取り戻そうとしただろう。
だけど、その「遅れ」とは具体的に何なのか。
学歴か、資格か、コミュ力か、経験か、、

それは即ち、自分の生きていく世界観を決める行為でもあると思う。

学歴がないから、その分資格を取ろう、
勉強ができないから、リア充になろう、
遅れを取り戻すために頑張ろう、
何かで自分の価値を取り戻したい。

そういう、欠落を埋めていく戦いに挑むことになるんじゃ無いかと思う。

僕は実際に、大学に入り、

友達をつくること、
集団に属すこと、
彼女をつくること、
社会性を身につけること、

そういう、高校時代埋められなかった欠落を埋めることが目的に行動していた。

結局、欠落を埋めるという生き方の世界観自体は、大学行っても行かなくても変わらない。

ただ、大学に受かったことで、勉強に関しての欠落を埋めることができて、人間関係の欠落の埋め合わせに集中することができたのは、幸運だったんだろうな、と思う。

もし大学に入ってなかったら、
勉強に関する欠落も、
人間関係に関する欠落も埋められなかった。

そして僕は大学卒業後、社会に入れなかった、という欠落を埋めるために就職した。

体育会系のパワハラ体質に嫌気がさし、
1年半で辞めてフリーターになった。
(ここでも、社会に適応できなかった、という欠落を抱えることになるのだけど)

フリーターになったのも、自分の素直な何かを表現できないまま終わりたくない、
という欠落を埋めるためだった。

結局僕は転職し、今は生計を立てるために働いている。
高校生からここ10年はずっと、何らかの欠落を埋めるために生きている気がする。
後からああすればよかった、と思うのが嫌で、とにかくやってみて無理だったら諦めよう、という気持ちでやっている。

それでうまくいったこともあるし、手痛い失敗も数多くある。

みんなは、こういう世界観で生きてないんだろうな、と思う。
マイナスをゼロにする、という感覚で頑張ってないんだろうな。
自分はなんでこういう生き方をしているんだろう?と思う。

だけど最近、大きな欠落はだいたい埋めた、
いや埋まってはないけどまあもういいや、という感覚になりつつある。

きっとこの先、給料や働く場所、仕事内容、人生のライフステージに関わるその他諸々で、
何らかの欠落を埋めるための頑張りをやるんだろう。
けど、できるだけもう、自分がやりたいと思うことを素直にやりたいな、と思う。

大学に受かってよかった。
就職しといてよかった。
でも、それは後悔しないためにやってみただけ。
いまだに、どう生きるのがいいのか、よくわからない。

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