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大企業を辞めてまで「夢」を追いかける一人社長の歩み ~野村アグリ時代~

自分の「夢」をあきらめきれず、大企業を辞めて起業した男がどんな人生を送ってきたのか?
今回は起業のきっかけにもなった野村アグリプランニング&アドバイザリー株式会社(NAPA)時代について書いてみる。

支店と大手町との感覚の違いに驚く

2011年12月1日、自由が丘支店の引継ぎを終えてNAPA初日を迎える。勤務地は野村證券大手町本社アーバンネットビルの目の前にある大手町野村ビル。大手町駅についてもどこの出口から出ればよいかわからず彷徨い、田舎者丸出しの状態で何とかNAPAに着いたのを覚えている。

大手町野村ビル

着任早々、アーバンネットビルの役員室に連れていかれ、当時NAPAの会長を兼任していた野村證券の副社長に挨拶。支店にいると本社の役員が神様のような扱いだったのが嘘のような距離感に衝撃を受けた。

29歳で全くの畑違いの業務へ

NAPAは野村證券の子会社の中でも少し変わっていた。本業が農林漁業分野のコンサルティングということもあり、野村総合研究所(NRI)のコンサルティング本部から3名出向してもらっていた。まだ設立1年足らずの会社で私を入れても10数名しかいなかった。

「Excelとパワーポイントを使えるか」
NRIの上司に言われた最初の言葉である。私は本当に使えなかった。証券営業では自分で資料を作ることはできないし、大学時代も全く使ったことがなかった。しかし、上司に「とりあえず資料を作ってみて。」と言われ、その日のうちに本屋でExcel入門とパワーポイント入門を購入した。

NAPAに来てキツかったのが「議事録作成」。最初は勝手がわからないので上司の後ろについて全国行脚。その打ち合わせ内容について「議事録」を作成するのだが、パソコンすらろくに使えなかった私は、面談中はノートに書きこみ、会社に戻ってパソコンに打ち込んでいた。これは本当にキツかったし、つまらなかった。「ヤバいところに来ちゃったな~」と正直思った。
さすがにこれでは効率が悪いと、業務前や業務後にブラインドタッチの練習ゲームをしまくった。今では面談中に議事録を取るのもお手の物である。

着任して半年後にはプロジェクトリーダーに

NAPAはまだ設立1年のスタートアップ企業。私は調査部に配属されたがコンサルティング部も3人しかおらず、プロジェクトは部署を超えて全員でやっていた。今は部ごとに業務を分かれているので、様々な経験ができたのはラッキーとしか言いようがない。

着任して半年後、農林水産省の6次産業化セミナー事業に再度申し込むか社内で検討した際、前任のプロジェクトリーダー(PL)がやりたくないと言ったので「やりたいです!」と飛びついた。企画書を作成するのも初めてであったがなんとか事業を受託。そこから私と「6次産業化」との長い付き合いが始める。
※「6次産業化とは生産(1次)だけでなく加工(2次)・販売(3次)まで統合的に行うことで所得の向上を目指す取り組み。1次×2次×3次=6次」

2013年には農林水産省の6次産業化の表彰事業をプロジェクトを受託した。これが私にとって大きな転機となった。表彰の事例調査で全国の農林漁業者を訪問し、経営者に会ってヒアリング調査を行うのである。さらに表彰することによって受賞者との距離も縮まる。表彰事業は私にとって勉強になると同時に生産者とのネットワークが築くことができ宝の山だった。

輸出フォーラム

生産者の懐に飛び込むのが自分の役目

NAPAは年々コンサルティングの仕事が増えていた。その中でも記憶に残っているのが沖縄県伊江島でのコンサルティング支援である。伊江島は美ら海水族館から見える通称「帽子島」。羽田空港から那覇空港まで約3時間、分那覇空港からレンタカーで本部港まで2時間、そこからフェリーで30分。日帰りでは帰れず伊江島内の民宿(ホテルもない)に泊まるしかなかった。

コンサルティング期間は約半年。月に2回の訪問で計12回訪問。当然、毎回宿泊の度に宴会。私は社長のみならずご家族とも盛り上がり、最後はいつも泡盛で撃沈。ほぼ毎回、気がづいたら民宿のベッドで寝ていた。しかし、これだけお客様とどっぷり付き合ったのは初めて。そして、これは「営業マン出身で頭のネジが飛んでいた自分にしかできないことだ」と開眼した(笑)

それ以降、出張する時は極力先方に泊まるようにした。NRIから出向している上司と一緒に訪問し、私がお客様を良い気持ちにさせて撃沈。その間に上司がお客様から仕事の悩みを聞き出すという「名(迷)コンビ」で全国の農林漁業者との関係を構築していった。
(今は1人でやらなければならないので、非常に負担が大きい(笑))

自分の名前が世に出るのが嬉しかった

講演活動や執筆活動も精力的に取り組んだ。野村證券の営業マンはトップセールスになっても、社外に名が出ることはそうはない。しかし、NAPAではレポートを書けばホームページに掲載されるし、講演をすればチラシやネットに掲載される。基本的に目立ちたがり屋の私は名前が出るのが嬉しくかった。

しかし、支店の営業マンがいきなり執筆ができるわけがない。NAPAの初代社長はエコノミスト。その社長にお願いして短い寄稿から書かせてもらい、社長や部長に何度も添削をしてもらった。そして、2018年2月には人生初となる論文を執筆することができた。

『農林漁業を成長産業へ導く「6次産業化2.0」』

講演についても、実績のない私に講演依頼がくるわけがない。そのため、農林水産省の事業で開催したセミナー(全9回)にて、基調講演を上司と自分の交互に講演することを提案した。今でこそ時間を見ながら話せるようになったが当時は緊張しまくり。初めての講演では早口になってしまい60分の講演が40分で終わってしまった(汗)
それ以降の講演でも会場の後ろから上司に「(時間を)伸ばせ、伸ばせ」というジェスチャーをもらって時間を調整したのを今でも覚えている。私は本当に人に恵まれている。

全てはタイミングであり運命

そして、2019年3月に突然の人事異動によって会社を辞めた。

私の野村人生は波乱万丈だった。しかし、社内公募に手を挙げていなかったら今も営業店にいたかもしれない。2019年3月のタイミングで異動がなければ間違いなくNAPAを辞めていなかっただろう。最近、異動が1年後(2020年3月)だったら、この新型コロナウイルスの影響で経済が混乱している中、自分が起業していただろうかと考えてしまう。

全てはタイミングであり、その時にどういう決断を下すか。その決断が良いか悪いかなんて誰もわからない。ただ一つ言えることは、コネがなくても、大学時代遊んでいても大企業に入れるし、起業もできるということである。少しでも私の人生を読んで楽しんでもらえたら幸いであるし、できることなら今後の私の人生に期待をして欲しい。


「農林漁業を夢のある食産業へ創造する」というミッションを実現するために活動を続けております!何卒よろしくお願い申し上げますm(_ _)m