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へらへらと石橋を叩くような。



最近気づいた事だが、フォーマルな場面や固い空気の中で、くだけた発言をする事が多い。そしてその後にへらへらする。この自分の笑い声に気づいた時には寒気がした。なぜだろうかと深化していく。


主張ではなく、その人の自信。多くのステージに立つ人間は胸を張って大きな声で真面目な事を真面目な顔で話す。随分と立派そうである。
もちろん褒められるべき事だが、そこにある大きな違和感にいつも複雑な気持ちになる。どうしてそんなに自信ありげに自分の主張の上に立っていられるのだろう?と。高比良くるまのように同じ目線で「それをマジで今日全員で考えたくて!」と言いたい。(2022の敗者復活から令和ロマン大好きです)


僕は考える事をやめられない愚かな人間である。正直、同じ街に住む人の中で五本の指に入るくらいずっと何かを考えていると思う。(これは考えている対象など問わないなら、だ。その他いろんなレギュレーションは置いておいて欲しい。ものの例えです。)
すると、自分の中の気づきを形にして大きな一つの考えになったとしても、それを疑い続けるようなスタンスが付きまとう。それは自分の在り方や存在自体に、常に疑いを持つ事でもある。皆さんもそういう事あるんじゃないですか?


たまに、「〜ってアーティストの言葉でこういうのがあるんだよね。」と自分の主張の前に枕詞を置く人間がいる。
ごめんね、好きじゃないです。あなたの言葉で、あなたの経験から、あなたの脳をフルで使った上で話して欲しい。その部分を著名人の考えという虎の威を借りるしかないなら、それってなんかかっこよくなくない?僕はそんなあなたとはあまり話したくない。(あえて言うなら特定の誰かを非難してるわけではない。シチュエーションにもよるし。)


本題に戻す。
僕はへらへらすることによって、自分の意見を強く言う事を避けているようであった。言いづらいんだもん。ぶつかりたくないんだもん。あの瞬間の顔ってどんな優しい人でも直視できないくらい怖いんだもん。

ただ、僕は自分の意見に自信があると思う。自分という存在より、主張に対してのみ自信があると思う。そして、それを語気強く、相手をねじ伏せるような捉えられ方で話したくない。主張が一方通行である事の理不尽さが大嫌いだ。だから、自信があるからこそ下から話したいと努力しているようです。もちろん、対話の結果自信のあった考えが変わることも往々にしてあります。(ちなみにディベートする番組や昼過ぎにやっている政治評論家が相手を遮ってまで討論する番組は本当に見れません。不快感と共に動悸が早くなる。)

立場ではなく、経験してきた事や考えてきた事だけを踏まえて主張を聞いてくれる人には、へらへらせずに想いや考えを伝えられることが多い。
たいてい、そういう人は僕が時に未熟な主張を話してもそれを嘲ったり遮ったりしない。呼気で膨らませた風船でバレーするみたいに、主張が落ちてくるのを尊重し真摯に待ってくれる。
そうであれたらいいなあ。居酒屋でも、ライブMCでも、余裕があっても、苛立っていても。考える葦とすら形容される人そのものを愛して、言語化の具合や感情の大小に惑わされず、まるで流れ星の行先を妄想し合うようなスタンスで話せたら、どんなに良いか。
きっとその時には、へらへらせずに向け合ったまなざしが交差して、どこか遠く深いところへたどり着けると信じている。


2024.03.27

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