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芸術作品とは「解けない問題」である

(無料記事です。連続ツイートを元にして書きました。)

芸術作品とは何か。作品に向き合う方法とは。ここでは、作品を見たり読んだりして、まず「ふわっと」感じること、それが大事で、それをいくらか言葉で膨らませる、ということについて説明したいと思います。

それは、作品の「謎解き」ではありません。しばしば、謎解き的に作品を読みたがる傾向があり、それはそれなのだけれども、僕が思うに、芸術鑑賞の「本体」はそうではない。むしろ、「ふわっと」が大事。これはまあ、ものの言い方で、実は、「ふわっと」感じたことには「深いもの」が秘められている、という話になります。

芸術を「深く」鑑賞するためにこそ、むしろ「ふわっと」から始めたほうがいい、というのが僕の考えなのです。

芸術作品に対して、「何が言いたい」のかわからない、というのをよく見かけます。どうも人は、作品に「メッセージ」のようなものを期待しているようです。そして、作品の言いたいこと=メッセージは、これこれ、こうだと、「読み取って言葉にできる」ものだと思われている。さらには、それに正解がある、あってほしいという感覚もあるようです。

芸術と、言いたいこと=メッセージの切り離しを理解してもらう必要があります。このことを、来年出版を予定している芸術論の本でも説明します。

いろんな面でコスパ・タイパ重視となり、それで「何を得られるのか」という発想が強くなっているのが現代です。見たり聴いたり読んだり、といった活動での得られるものは、一般に、「情報」であると言えるでしょう。「わかる」というのは情報が伝わること。そして、それが「感情」をプラス/マイナスに動かす。

わかりやすいエンタメの場合は、「情報→感情」という流れを、それこそコスパよく、タイパよく展開してくれる。他方で、芸術性が強いと思われるような作品になると、それがモタモタ、モヤモヤして、どう受け止めたらいいかわからない感じになってくる。

わかりにくい作品は、

(1)まず、情報を取り出しにくい。多くの要素があったり、物語の流れが複数あって絡み合っていたり、伏線が回収されなかったりする。

(2)引き起こされる感情が単純明快ではない。愛と憎しみ、快と不快、安心と不安などが混じり合っている。つまり、感情が「両義的」である。

すると、次のように定式化できるでしょう。

「情報が絡み合っている→両義的な感情」

これが一般に、わかりにくいと言われる作品のあり方ではないでしょうか。そしてこれが、芸術と呼ばれるべきものの大まかな特徴だと思うのです。

ところで、この「情報が絡み合っている→両義的な感情」とは、人生そのものではないでしょうか?

人生とは、わかりやすい単線のストーリーではありません。様々な要素や人物が関わり、物語は同時並行で複数の線が絡み合い、途中で消えてしまう伏線がたくさんあります(というか消えてしまうものばかりです)。そして、人生におけるどの局面を取ってみても、それが良いものか悪いものか、快か不快かは、よくよく考えれば両義的です。

というわけで、芸術作品のよくわからなさに向き合うことは、人生のよくわからなさに向き合うことにつながっています。だから、芸術性が強い作品は、ときに、しんどいものに感じられるのだと思います。

ちょっと話を急ぎすぎました。ここから「ふわっと」の話に切り換えます。

作品について、「ふわっと」なんとなく感じることがある。たとえば、抽象絵画において、何を描いているわけでもないが鮮やかなグリーンに塗られたところが目に焼きついたとする。このグリーンは何だろう。小説において、ある登場人物が感じている不安。それが心に引っかかる。こうしたことは、「情報が絡み合っている→両義的な感情」に反応していると言えます。

こういう場合、「グリーンが記憶に残った」、「ある登場人物がずっと抱えている不安が気になった」とかで、十分な鑑賞です。

しかし、この鑑賞は、モヤモヤしています。モヤモヤし続けている。

モヤモヤし続けたくない——

だから、その色彩、その感情が「何なのか」を固定しようとして、作品に隠された謎とか、裏設定とか、作者の狙いといったものを解読しようとする。

ですが、そうではなく、芸術鑑賞とは、モヤモヤに耐え続けることなのです。そして、作品をまた見直し、新たな思いが湧いてきたらそれを付け加える。モヤモヤを粘土みたいにこねて、何か「思いの形」にしていく。そうして出てくる言葉が、自分なりの批評だということになります。それは、だから、謎解きではありません。

「スッキリと情報が得られ、感情が明確になる」のでなくていいのです。

なんか妙な感じがした、ちょっと心に引っかかった……それだけで、「解けない問題」としての芸術に反応しているのです。

芸術作品とは、答え=情報を取り出して「わかった」とはならないもの、すなわち「解けない問題」であり、だから何度でも味わうことができる。

作品を見て、「ほえー」と思って、なんか面白ければ、まずそれ「だけ」で100%完璧な芸術鑑賞です。ところが、言いたいこと=メッセージが意識できなければ鑑賞できていない、という誤解が世の中に蔓延しているように見受けられます。

社会のなかでもっと芸術がイキイキするためには、要するに何なんだ、ではなく、なんとなくいい感じだとか、なんかちょっと考えさせられるというだけで100%オッケーというマインドがもっと広がる必要があると思います。

そもそも、実作者の一人として言うと、芸術作品は、「何が〜だ」という命題として言えることを伝えるために作っているのではありません。まず当事者がそういうつもりで作っていないこと、これは特殊意見ではなく基本的に実作者はそうだということ、これが広く知られてほしいと思います。

芸術が難しいと言われるのは、「何が〜だ」と明確に言えないものを表現しているからです。つまり、「問題」を表現しているのです。

作者は、どんなジャンルでも、何か「自分の問題」をそこに表現していると言えます。個人性が薄く、公共的なテーマだと見える作品でも、その根っこには個人的なモチベーションが必ずあります。この「自分の問題」を、何かはっきりした言いたいこと=メッセージのように捉えてしまうのが誤解なのです。

芸術における「自分の問題」は、言いたいこと=メッセージではない。

そもそも、「自分の問題」が解けるのであれば、芸術作品を作る必要はありません。解けない問題としての「自分の問題」は、いろんな要素の絡み合いであり、その構造をまさぐる。解こうとして、いろんな困難に突き当たり、迂回路を考え、ごまかしをし、休み、また取り組む。そのうちに問題は変化し、また取り組み方を変える必要が出てくる。芸術作品とはそのような「問題を生きること」そのものです。

解けない問題を抱え、表現するなんて、それこそコスパ・タイパ的に言ってバカみたいじゃないか、という意見が聞こえる気がします。そもそも、解決可能でない問題にこだわるほうがおかしい、とか。

自分の人生を、科学的な問題解決や、社会の制度設計など「実装可能」な取り組みに捧げる生き方もあります。しかし、そういう生き方をしていても、誰であれ、個人としての人生は複雑で解決できない問題の絡み合いであり、普段はそれをあまり気にしないようにしているとしても、実際には誰でもそうです。

芸術家とは、人生の複雑さを問題解決の連なりに変換するという通常の生き方の手前で、問題そのものに滞留して仕事をする人です。

要するに、と言い切るようなコスパ・タイパ的な言葉づかいでは、芸術家が取り組んでいる解けない問題、つまり鑑賞者にとっての「他者の問題」を受け止めることはできません。それを言葉にするには、「ああだこうだ」と言うことになる。ここには、人を尊重する、人の抱えている問題をどんな人でもどんな極悪人でも尊重する、という倫理があります。

自分の人生についても、こうだと決めてかかるのではなく、ああだこうだと思いめぐらすのは負荷がかかるから、人はそれを避けようとする。芸術(における他者の問題)に関するああだこうだの負荷を自分にかけることは、自分の人生のああだこうだを引き受けるという負荷につながってくるから、面倒で、反コスパ・反タイパだからやりたくない、という理由も考えられるでしょう。

「ふわっと」思ったことを大事にする、というのは、このような、他者と自己の人生を深く捉えるという倫理につながるのであり、それは反コスパ・反タイパであり、人生にじわじわと影響を与え続けることになると思います。それが芸術というものの効果ではないかと僕は思います。

最後に、「ふわっと」から先へ進むためのことを追加します。

「ふわっと」というのは、まずは大きく、作品の持つ問題性に反応するということなのでした。そこから語りを起こしていくには、作品の「構造」を捉える必要があります。ここでも、謎解きではない、というのが重要です。

まず、謎でも何でもなく、作品における要素がどう配置され、何と何が対立し、何と何に類似の関係があり、といった組み立て(構造)を観察することです。作品の地図作成をする。これはけっこう難しいことで、たくさんの作品で練習する必要があります。おそらくその難しさのために、途中で観察を放棄して、「この要素は、実は作者のこういうメッセージを表している」といった謎解きに飛びつきやすい。

完璧に観察し切ることはできません。なので、ここでもモヤモヤが残ることに耐える必要がある。自分の観察の限りでは、この作品はこういう構造として捉えられる、というある程度のところで、まあいいか、とせざるをえません。でも、それでいいのです。完璧な観察はありえないのだから。

そして、そこで見えてきた構造と、作品の問題性をめぐる「ふわっとした」感覚を結びつけることを試みます。作品のこの部分がこうなっていて、それが、ある種の両義的な感じにつながっている……みたいな解釈を試みることになる。そのような解釈が、作品のある程度客観的な構造にもとづいて、自分の責任において行う解釈であり、それは、どの芸術ジャンルにおいても共通する方法だと思います。

作品構造の観察ができるようになるには、そのジャンルのものをちょっとでも(本当にちょっとでも)自分で作ってみようとする経験が、大きな意味を持ちます。

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