社会通念との戦いを描いた物語 〜 映画『RAW 少女の目覚め』〜



 ジュリア・デュクルノーは、フランソワ・オゾンが通ったことでも知られる映画学校、ラ・フェミスが輩出したフランスの映画監督。彼女の名を一躍有名にしたのは、短編映画『Junior』だ。この映画は第64回カンヌ国際映画祭のペティットレイル・ドールを受賞するなど、高く評価された。

 そんな彼女の長編デビュー映画こそ、『RAW』だ。第69回カンヌ国際映画祭で批評家連盟賞を獲得した本作には、デュルクノーの名声をより高める十分なクオリティーがある。エドガー・ライトやM・ナイト・シャマランといった監督たちも賛辞を寄せたりと、同業者からの支持も多い。
 物語は、ギャランス・マリリエ演じるジュスティーヌを中心に進んでいく。厳格なベジタリアン一家に育ったジュスティーヌは、両親や姉と同じ獣医学校に入学した。初めて親元を離れ、さらに見知らぬ土地の大学寮で生活をすることもあり、大きな不安に駆られる。
 それでもなんとか学生生活を送っていたある日、大学の恒例行事でウサギの腎臓を食べてしまった。これがキッカケでジュスティーヌは、生肉が食べたいという抑えきれない欲望を抱えてしまう。両親の教えに背いてしまったことに罪悪感を抱きつつも、その欲望は周囲の人々を巻き込んで増大し、ついには人肉を求めるようになる……。

 便宜的に言えば、本作はサイコスリラーかもしれない。しかし、大学入学を機に自由奔放な姉・アレクシア(エラ・ルンプフ)とさまざまな初体験を重ねていく様子は、少女が女性になるまでの青春物語でもある。事実、本作にはそうした側面もあると暗喩したシーンが登場する。新入生を迎える儀式に参加したジュスティーヌが、大学の先輩たちに血を浴びせられるのがそれだ。これを見て、『キャリー』の有名なワンシーンを連想した人も少なくないだろう。プロムでキャリー(シシー・スペイセク)に豚の血が降りそそぐ、あのシーンである。

 ブライアン・デ・パルマによる『キャリー』は、熱狂的なキリスト教信者の母・マーガレット(パイパー・ローリー)に厳しく育てられたキャリーが、なりたい自分になろうともがく物語だ。高校のクラスメイトたちにいじめられ、月経を知らなかったことをバカにされながらも、キャリーはトミー(ウィリアム・カット)に励まされ自分に自信を持てるようになった。そのおかげもあって、キャリーとトミーはプロムのベストカップルを獲得。栄えある栄冠を授かるため、キャリーはステージに上がるのだが、そこで待ちうけていたのは豚の血だった。このことに憤慨したキャリーは秘めていた超能力を解放し、プロムに集まっていた大勢の人たちと、マーガレットを殺害した。

 ジュスティーヌとキャリーには共通点が多い。共に内気な性格で、厳格な教育を受けてきたこと。目覚めのキッカケが“血”で、それが月経の暗喩として描かれているのも同じだ。
 もちろん異なる点もある。キャリーを導いたのが男性のトムだったのに対し、ジュスティーヌはアレクシアに導かれる。妹のためにアレクシアは、文字通り命を賭けて人肉を得ようとし、何かとジュスティーヌの手助けを買って出る。姉妹の関係性はどこかシスターフッド的な連帯を見いだせるもので、本作にフェミニズムの要素や、それに基づく偏見への批判精神があることを観客に告げている。

 この批判精神は、ジュスティーヌが看護師(マリオン・ヴェルノー)にかけられた言葉にも見られる。突如、激しい痒みに襲われたジュスティーヌは、看護師に診てもらう。治療を終えると看護師は、かつてジュスティーヌと同年代の患者を診たときのことを語りだす。なんでもその患者は、太い体型だから静脈を見つけにくいという理由で、注射を打つ際たらい回しにされた経験があったという。おまけに体重を減らすようにも言われたそうだ。そのことに看護師は怒り、自分は問題なく静脈を見つけられたと語る。一見すると、仕事の経験を話しているだけにも聞こえるが、太っていても彼女は素敵だったと付けくわえていることもふまえると、このシーンはルッキズム(容姿差別)批判だろう。そうした役を、映画監督として女性の心情がテーマの作品をいくつも残してきたヴェルノーに任せたのは、デュクルノーの遊び心といったところか。

 デュクルノーは、ジュスティーヌにさまざまな表象を込めている。性的目覚めの比喩として人肉を渇求する様が使われただけなら、たいして驚きはしない。本作が秀逸なのは、そこにガールからレディーへの移行のみならず、性的指向の自覚という意味も込めているからだ。食人(カニバリズム)という行為は、世間一般では異常なことだとされている。そうした異常さを抱え、そのことに葛藤するジュスティーヌの姿には、自身のセクシュアリティーと世間の固定観念とのギャップに戸惑う人たちを重ねてしまう。これもデュルクノーの狙いなのは間違いない。

 そのことを確信したのは、ジュスティーヌの父親(ローラン・リュカ)の告白だ。それは本作のラストで語られる。テーブル越しにジュスティーヌと向かいあった父親は、タバコに火を着け、口元に近づける。そこで観客たちは父親の唇に違和感があることに気づき、すべてを悟るのだ。シャツを脱いで露わになる傷など見るまでもない。あのラストシーンで、ジュスティーヌの渇求は“個人的な問題”から“家族の問題”へと一気に様変わりする。父親の告白には、自分たちはひた隠しにしながら生きていくしかなかったが、ジュスティーヌはなんとか解決策を見つけられるはずという切実な想いがあった。

 こうした父親の告白に筆者は、差別の歴史を連想してしまう。アパルトヘイトやジム・クロウ法といった人種差別的な施策が平然とおこなわれ、いま以上に多くの国が同性愛を法律で禁止していた時代のことが、どうしても頭によぎる。そんな筆者にとって『RAW』は、社会通念と戦う家族の物語なのだ。

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