対話なき世界という思考実験 〜 映画『沈黙 ‐サイレンス‐』〜



 ロシアの学者ミハイル・バフチンは、異質と思われるもの同士が出逢ったとき、それぞれが一体性を保ちつづけることが創造的対話に繋がり、それが互いを豊かにすると説いた(※1)。バフチンは、主体性を放棄させたり、培ってきた文化を強制的に忘却させること、いわゆる同化主義的な思想には批判的だ。“外在性”という言葉をよく用いて、どんなものでも複数の視点が存在すること、そしてそれを解消することは不可能だと語ってきた。端的に言えば、人それぞれ価値観が違うのは絶対であり、すべての人たちをひとつの価値観に染めあげることは不可能だということだ。だからこそバフチンは、対話とそれに基づく理解の重要性を語りつづけた。常に異なるものを意識したバフチンの思想には、多様性や共生を考えるうえで重要なヒントがたくさんある。


 こうしたバフチンの対話理論を通して、マーティン・スコセッシ監督の映画『沈黙 ‐サイレンス‐』を観ると、この作品は対話なき世界という思考実験なのではないか? と思えてくる。
 本作の物語は、17世紀の江戸初期、当時の幕府によるキリシタン弾圧下の日本が舞台だ。日本で捕えられ棄教したという宣教師のフェレイラ(リーアム・ニーソン)を追い、弟子のロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)とガルペ(アダム・ドライヴァー)は日本へ行く。2人は、日本人のキチジロー(窪塚洋介)による手引きで日本に到着したが、そこには想像を絶する光景が広がっていた。基本的に本作は、その光景を目にしたロドリゴの様子を軸に話が進む。


 特に目を引いたのは、弾圧を進める長崎奉行の井上(イッセー尾形)とロドリゴのやりとりだ。なかでも、日本をわかってないと言う井上に、ロドリゴがあなたはキリスト教をわかってないと返すシーンが印象に残っている。このシーンこそ、先に書いた対話なき世界という思考実験を象徴しているからだ。井上とロドリゴ、共に自らが信じる正しさを持ち、それを語れるだけの言葉も持っている。一見すると、2人のやりとりは対話に見えるかもしれない。ところが、そこには相互理解が見られない。こっちが正しい、いやこっちこそ正しいという水掛け論にしかなっていないのだ。
 こうした、他者を理解しようとしない姿はいくつも見られる。たとえば、ロドリゴに対し井上が、百姓は何もわかっていないと評するシーンなどがそれだ。本作は、ロドリゴの信仰心にある傲慢さに焦点が当たっているように見えるが、その傲慢さを剥がしていく側の井上に潜む傲慢さも描かれている。確かに、日本という国を理解しないまま、自らの信仰をただ広めようとしたロドリゴ(と彼を支えるキリスト教)は傲慢だろう。しかし、キリシタンというだけで、暴力的にキリシタンたちを葬った井上(と背後にある当時の幕府)もまた傲慢である。井上から見れば、キリシタンになった者たちは何もわかってないのかもしれない。だが、なぜ少なくない人たちがキリスト教に救いを求めたのか理解しようとしない時点で、井上も何もわかってないのだ。そういった意味で本作は、対話や理解が不足したふたつの全体主義が戦う映画としても観れる。


 この戦いによって死んでいく者のほとんどが庶民というのも、見逃せないポイントだ。弾圧を進める当時の幕府はもちろんのこと、自身の信仰が多くの犠牲によって支えられているロドリゴも、数々の命を見殺しにしてきたと言える。互いの信念を戦わせた結果、罪のない多くの命が不必要に奪われていく。その悲哀がまるで、いまも世界中でおこなわれているさまざまな戦争や紛争のメタファーに見えるのは、筆者だけだろうか?


 もしかすると、世界をひとつの色で染めることができると思う者もいるだろう。そのうえで筆者は、本作のラストでロドリゴが持っていた十字架の意味を考えてほしいと願う。歴史を振りかえると、これまで多くの者たちがひとつの色で染めようと試み、その過程で暴力的な手段を用いた。しかし、そうした手段によって問題が解決することはない。ゆえにロドリゴは、ラストで十字架を手にしていたのではないか。どんな手段を使っても、人の想いや心を完全に殺すことなんてできやしない。だからこそ私たちには、対話やそれに基づく理解が必要なのだ。



※1 : ミハイル・バフチン『ドストエフスキーの創作の問題 付:「より大胆に可能性を利用せよ」』(平凡社)を参照。


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