映画『好きだった君へのラブレター』



 動画配信を軸としたコンテンツ争いにおいて、現王者のネットフリックスにディズニーが挑んでいるのはよく知られている。もともと幅広い世代に愛される作品を抱えるだけでなく、21世紀フォックスのコンテンツ事業も買収するなど、2019年開始予定とされる自前の動画配信サービスに向けてディズニーは着々と準備を進めている。

 そうした動きはネットフリックスも意識しているのだろう。これまでは大人向けのシリアスな作品を中心にしていたが、ここにきてドラマ『欲望は止まらない!』や映画『キスから始まるものがたり』を立てつづけに配信したりと、ティーン向けのオリジナル作品を増やしつつある。とりわけ後者は、ディズニーの映画『ティーン・ビーチ・ムービー』で脚本を務めたヴィンス・マルセロが監督に指名されるなど、ディズニー界隈から人材を引き抜くという意味では少々露骨な作品でもある。ケイト・エルブランドも指摘するように、セクシズムが目につく残念な内容だが、そうした点も含めて興味をそそられる。

 そんなネットフリックスが新たにリリースしたオリジナル作品こそ、映画『好きだった君へのラブレター』だ。微妙な邦題からもネットフリックスらしさを感じる本作は、ジェニー・ハンの小説『To All The Boys I've Loved Before』を原作としている。内容は、いままで一度も恋愛をしたことがない高校生、ララ・ジーン(ラナ・コンドル)を中心としたラヴコメだ。高校では元友人のジェン(エミリヤ・バラナク)に何かとちょっかいを出され、親友と呼べるのはクリスティーン(マデリン・アーサー)だけというララは、学校外でも妹のキティー(アンナ・カスカート)と過ごすことが多く、人付き合いが苦手な人物として描かれている。

 ララには、片想いをするたびに、その気持ちを綴った手紙を書いては秘密の箱にしまうという奇特な習性がある。劇中でもララが語るように、手紙を書いてしばらくしたら気持ちは落ち着き、忘れていくという。こうしてある程度の満足感を得ながら生活をしていたある日、何者かによって手紙が本人たちに届けられてしまい、ララの日常は一変する。ある者は手紙を返し、ある者はどういうこと?とララに問いかけたりと、内的世界で済ませていたものが現実世界に噴出してしまう。その流れで、ピーター(ノア・センティネオ)とはフェイクのカップルを演じることになり、ララの日常はさらに慌ただしくなる...。

 このように本作は、ラヴコメのなかでもドタバタ系と言われる物語だ。最初は演じていたララとピーターが本当のカップルになっていく様子や、ピーターと付き合っていたジェンがララに嫉妬して罠を仕掛けるなど、いわゆるお約束がいくつも登場する。母親が韓国系のララがヒロインであることや、そのララは男性たちに振りまわされない理知的な一面を持つなど、これまでのステレオタイプにあてはまらない要素もうかがえるが、基本的には王道のラヴ・コメディーと言えるだろう。

 この王道路線を支えるように取りいれられているのが、80年代にジョン・ヒューズが残した作品群だ。アメリカの映画監督であるヒューズは、80年代に多くの青春映画を生みだした。『アメリカン・グラフィティ』を筆頭に、それまでは過去を舞台にした青春映画が大半のなか、ヒューズは現在が舞台の青春映画を量産し、当時のティーンを虜にした。スクールカーストといったティーン特有の要素も積極的に取りいれるなど、その手法はいまも根強い影響力を持つ。

 それを証明するように本作は、スクールカーストに基づく人間関係や壮大な競技場のカットなど、80年代のヒューズ作品の代名詞ともいえるものが随所で見られる。おまけに、『すてきな片想い』というヒューズが1984年に発表した作品に直接言及するシーンまである。こうしたI Love 80年代な雰囲気は、ティアーズ・フォー・フィアーズの大ヒット曲“Everybody Wants To Rule The World”によって強化される。

 だが悲しいことに、本作はヒューズ作品のダメなところも受け継いでしまっている。たとえば、ララ、ピーター、キティーが一緒に『すてきな片想い』を観ているシーン。ピーターは「これって結構差別じゃないか?」とララに訊き、「かなり差別」とララも認める。それに対して「何で観るの?」とピーターが問いかけると、「Jライアン観る為に決まってるじゃない」とキティーが代わりに答える。この一連のやりとりは、3人の親しい関係性を強調するためのものだが、「かなり差別」と認めたうえで、架空の白人男性への憧れが上まわるという心理描写は、かなり都合が良すぎるのではないだろうか。『すてきな片想い』は、「ハリウッド史上最も差別的なアジア人のステレオタイプ」という批判もある映画なのだから。

 こういった想像力の欠如は、セックス・テープのシーンでもうかがえる。ララとピーターのキスを撮った動画がセックス・テープ(実際にセックスはしていない)として学校中に流出した際、ピーターの一喝だけで丸く収まったかのような描写はあまりに粗雑だ。流出が発覚したときのララはうろたえ、叫び声まで挙げるにもかかわらず、まるでちょっとしたトラブルのように処理されている。言うまでもなく、セックス・テープは重大なハラスメントだ。それをなぜ、本作の監督であるスーザン・ジョンソンは軽く扱うのか、理解に苦しむ。この軽率さは役者陣の好演を台無しにするレベルだ。





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