傲慢で身勝手な富豪どもクソくらえ! 〜映画『キングスマン』の痛快さと批判精神〜

 『キックアス』シリーズで知られる監督、マシュー・ヴォーンの最新作『キングスマン』。結論から言うと、最高なんでぜひ観てください。スパイ映画という体を借りた、“傲慢で身勝手な富豪どもクソくらえ!”な物語なので。

 正直、『キックアス』シリーズは苦手です。試写で『キングスマン』を観るにあたって久しぶりに観たけども、父親に半ば洗脳される形で、ヒットガール(クロエ・グレース・モレッツ)が戦いに身を投じているように思えて、やっぱりダメでした。自分の意志だけでヒットガールは戦っているのか、最後までわからなかったのです。これは僕にとって、後味の悪さを残すものでした。

 ところが、『キングスマン』にはそうした後味の悪さがない。むしろ痛快ですらあります。たとえば、エグジー(タロン・エガートン)の一言がキッカケで、「威風堂々」が流れるなかヴァレンタイン(サミュエル・L・ジャクソン)に“選ばれた人たち”の頭が次々と花火になるシーン。億万長者のヴァレンタインは、自分が残すべきだと判断した人以外を排除しようと考え、それを実行に移す悪役です。一方のエグジーは、軽犯罪を繰りかえす青年でしたが、ハリー(コリン・ファース)にスカウトされてスパイになります。この構図、マシュー・ヴォーンの出身地イギリスに詳しい方なら気づいたかもしれませんが、階級社会の暗喩になってます。ハリーとヴァレンタインが教会で対峙するシーンには、「アメリカは滅びる」なんてフレーズも登場するけど、これは大量生産/大量消費を柱としたアメリカナイゼーションに向けた批判だと思うのですが、どうでしょう?そして、そのアメリカナイゼーションを象徴するのが、ヴァレンタインというわけです。

 また、劇中でハリーは、マナーが人間を作ると言います。そしてエグジーには、身分なんて関係ないと励ましの言葉をかけます。裕福な家に生まれたからといって、まっとうな人間になるわけではない。スパイになるための訓練を受けるエグジーに対して、上流階級に生まれたであろう人たちが小バカにした態度をとることからも、それはわかります。ベタといえばベタですが、こうした立身出世物語には、胸が熱くなってしまう。斜にかまえた姿勢が知的とされがちな風潮は未だ根強いですが、そうしたなかで“ベタ”をストレートに表現することが必要だと、マシュー・ヴォーンは感じたのかもしれません。

 イギリスは今、首相のデーヴィッド・キャメロンが中心となり、生活保護などのさまざまな公的手当の削減/打ち切りを断行しています。おまけに収入格差も広がる一方。こうしたイギリスの現況は、“ブロークン・ブリテン(壊れた英国)”と呼ばれています。そんな社会に夢や希望を持てないのは自明です。このようなイギリスの現況と『キングスマン』は繋がっていると、僕は思います。

 そういえば、マシュー・ヴォーンと同じくイギリス出身のスティーブン・ダルドリーは、映画『トラッシュ! -この街が輝く日まで-』(2014)を作りました。この映画は、ゴミ拾いで日銭を稼いでる3人の少年が、自らが正しいと思うことを貫くため、さまざまな妨害を乗りこえていくという内容。最終的に3人がヒーローになる展開は感涙ものですが、劇中に登場する「革命」という言葉がすごく印象的でした。『キングスマン』に「革命」は登場しません。でも、主人公が“変化”を求めている点は、『キングスマン』と『トラッシュ! -この街が輝く日まで-』の共通点だと思います。見せ方の違いはあれど、立身出世物語的な“変化”を含んだ映画がほぼ同時期に作られ、しかもすべてイギリス出身の監督によるものというのは、はたして偶然でしょうか?くわえて、自分たちを抑圧してきた存在を倒したうえで、名声を得ている。ここも重要なポイントでしょう。

 『キングスマン』と『トラッシュ! -この街が輝く日まで-』を繋げるキーワード、それは“夢と希望”です。現実は“夢と希望”をあたえてくれない。ならば映画でそれをあたえようじゃないか。そんな矜持と温かみが、『キングスマン』と『トラッシュ! -この街が輝く日まで-』にはあると思います。そして、その矜持と温かみは、いまの日本にも求められるものです。

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