Kojaque『Town's Dead』は怒りを怒りのまま表現する


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 近年のアイルランドといえば、おもしろいアーティストを多く輩出する国として知られている。アイリッシュ・ドリルのような興味深い音楽シーンが注目を集め、フォンテインズD.C.という素晴らしいロック・バンドを生みだしたのも記憶に新しい。他にもフィア・ムーン、トラヴィス、セラヴィエドマイ、ビーグ・ピーグなど、聴く価値があるアーティストを挙げていけばきりがない。

 だが、そうした音楽シーンの活況とは裏腹に、アイルランドはさまざまな問題を抱えている。ホームレスの増加が社会問題となり、アンダーグラウンド・シーンにおいてアーティストたちのハブ的役割を果たしていたジグソーはジェントリフィケーションの影響で閉鎖に追いこまれた。文化や生活が大切な者にとって、アイルランドの現状はお世辞にも明るいとは言えないのが本音だろう。

 そうした本音を音楽で表現してきたのが、ラッパー/視覚芸術家/映画制作者のコジャックことケヴィン・スミスだ。アイルランド南部にあるコーク出身のケヴィンは、2018年リリースのミックステープ『Deli Daydreams』で一躍知名度を高めた。デリ・ワーカー(街の小さな惣菜屋で働く人を指す言葉)の生活を描いたこの作品で、ケヴィンは労働者の日常という視点を通し、多くのテーマを言葉にした。喜びや楽しさを描写しつつ、経済的困窮、性暴力、人種差別といった問題にも言及する上手さは、いま聴いても筆者の耳を昂らせてくれる。

 生活とその背景にある社会を克明に紡いだ『Deli Daydreams』が高く評価されたことで、ケヴィンはアイリッシュ・ヒップホップの顔役として取りあげられる機会が増えた。
 その立場はケヴィンに相応しいものだと思う。自らSoft Boy Recordsを設立すると、アイルランドにあるさまざまな創作コミュニティーと積極的に交流しながら、現地のアーティストたちを支えてきたのがケヴィンという男だからだ。その働きは多方面から評価され、スロウタイやラナ・デル・レイのツアーに同行する大仕事にも繋がった。

 このような活動を積みかさねてきたケヴィンにとって、待望のデビュー・アルバム『Town's Dead』が生活と社会の作品になったのは半ば必然だったと言える。
 本作でケヴィンは、『Deli Daydreams』で披露した視点を深める道に進んだ。再開発の影響で家賃が高騰するダブリンに暮らす大変さをラップした“Town's Dead”、不安定な生活において精神的穏やかさを保つ難しさが滲む“No Hands”など、ケヴィンは躊躇なく政治/社会的側面に踏みこんでいく。
 それでいて、失恋やガールフレンドとのひとときといった個人的事柄も多く取りあげられている。こうした内容からもわかるように、ケヴィンは社会と生活を恣意的に切り離すことはしない。生活苦や不安という個人の問題にされがちなものも、歪な社会構造に原因があることも少なくないとわかっているのだ。

 サウンドはこれまでの作品よりも多彩で、言葉だけのラッパーではないのが伝わってくる。スロウタイ“Doorman”(2018)を想起させるパンキッシュな“Town's Dead”、J・ディラ的なよれたビートが特徴の“Wickid Tongues”、インダストリアル・ロック的なざらついた音色が耳に残る“Part II”といった曲が並ぶ内容は、ケヴィンの多様な音楽的引きだしが眩しいほど輝いている。隣国のイギリスで大盛りあがりのUKドリルやアフロスウィングに染まりきることなく、自身がやりたい音を鳴らす姿は爽快だ。

 『Town's Dead』は、華やかさの影で燻る病巣を炙りだす。街並みは綺麗になり、賑やかな光景がそこかしこにあるように見えても、その傍らでは多くの者が生活するのも精一杯で、安定とは程遠い人生を強いられている。
 このことに対する怒りを、ケヴィンはまっすぐ表現してみせる。反発を恐れるあまり、グラブジャムンよりも甘い言葉でラップしたり、八方美人的な美辞麗句を並べたりはしない。巧みな言葉選びを駆使し、現実を現実として私たちに示すだけだ。

 その姿に漲る誠実さと批評眼は、日本で生きる私たちにこそ必要なものだろう。日本にも、本作で描かれた病巣と似た状況がすでにあるのだから。



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