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Nepal - ネパール へ #5

Day 5. Pokhara - ポカラ

2023年に上梓された、沢木耕太郎さんによる最新著書「天路の旅人」(新潮社)は、第二次世界大戦中、日本軍の中国大陸西進の混乱の最中、密使として、ひとりラマ僧となりチベットから広く西蔵、印度へと侵入したロブサン・サンボーこと西川一三さんの人生を、その後の緻密な取材と、晩年の本人との対話から紡ぎ出した、壮絶にして壮大な冒険譚であり、人生讃歌だ。
私が初めて、ロブサン・サンボーの存在を知ったのは確か小学生高学年の時だったと記憶しているが、それ以来、憧れにも似た気持ちから、関連す書物を読み漁り、ラサのポタラ宮を起点として、彼の影を追う旅にでることを夢見たが、1948年に端を発する中国人民解放軍によるチベット侵攻(中国政府は、西蔵人民の帝国主義侵略勢力および国民党反動勢力からの解放と位置づけ)から約半世紀を経て、更なる同化政策の中で、私が夢見た風景は、凡そ姿を変えてしまっていると思われ、いつしか憧れと情熱は冷めていた。

むしろ、ガンデンポタン(チベット亡命政府)が本拠するダラムサラや、チベット仏教徒が人口の4割を占めるというラダックなど、インド領の街に憧憬の対象は移っていた。

私たちは、3日前にカトマンドゥを発ち西へと旅をしてきた。ロブサン・サンボーが主に往来したのはもう少し東寄りの山脈間だったはずたが、彼が最後にインドに辿り着いた旅程では、ここからそう遠くない地域を歩いていたはずだ。
私たちが通ってきた、あのH04はポカラを終点としH10へと合流、最終的にはH01に再合流し、インドへとつながっていく。

今回、ポカラにチベット難民居住区(難民キャンプというコトバが好きになれない)があると知った私は、しばし、かなり真剣に悩んだ。悩みに、悩んだ。
50を目の前に、ついにロブサン・サンボーの背中を、彼が歩んだ道程を、4月のネパールの陽炎の中に見つけられるかもしれないと興奮を抑えられない一方で、その邂逅がとても不十分で無理があるものであるような気がしたからだ。

それでも。行くことにした。
チベット人ガイド、Thupten Gyatsoの手ほどきを受け、その人たちの日常を垣間見、文化に触れ、その苦難を知り、信仰の深淵を感じたくて。

朝4時。
今日は、叩き起こされなくても、自ずから起きた。
前日に手配しておいた車は、まだ真っ暗闇に既にスタンバイしていた。あとは、その暗闇の中を、ネパール男性の正装の一部であるDhaka topi - トピ(帽子)をちょこんと頭に載せたドライバーの運転に任せて、ポカラ市街へと下る長い未舗装路の落ち着かない凹凸に身を委ねるだけだった。

到着したのは、引き続き、空もまだ白みはじめる前の4時半だった。

Thuptenはまだ到着していないが、ドライバーが通用門を開けてくれたので、礼を伝え、息子と伴に入場する。

愛嬌のある、人懐こい首にベルを下げた黒い大きな犬が寄ってきて背伸びをしてから、私たちにつきまとい、近くに座る。

その時、気がついた。
暗闇の中、ひとりの男性が敷地内を経を唱えながら歩いている。摩尼車を回し、何周も何周も何周も、周回を重ねる。
動けない。静謐な、神聖な時間を前に、動けなかった。

少しずつ東の空が白み始めると、今度は鳥たちが鳴きはじめる。

その間も、男性は、祈りの歩みを止めない。

ふと敷地の奥に光を見つけ、近づいてみると、質素で、清潔な台所で僧侶たちの食事と思われる準備が進められているようだった。

しばらくして、いよいよ朝が本格的に始まると、ひとりの成人僧侶が手に銅鑼を下げて、恭しく寺院の入り口に立ち、銅鑼を鳴らす。

黙々と周回し続ける男性

その後、彼はそのまま僧房へと入っていき、ときどき建物の中から銅鑼の音が聴こえてくる。
するとしばらくして、銅鑼の音で目を覚ました年少の修行僧が次から次へと出て来ては、様々な準備と思われる所作を進めていく。

香を起こす若い修行僧

失礼ながら、たまらなく可愛い。
やっとTupthenが合流し、敷地内のあれこれを一通り説明してくれる。

石に穿たれた梵字のマントラ(ཨོཾ་མ་ཎི་པདྨེ་ཧཱུྃ - Om・Mani・Padme・Hum)上に佇む一羽の鳥
遠く、アンナプルナを望む

そして、朝のお勤めが始まろうとする寺院の中へ。何人かの僧侶は、五体投地を捧げて入場してくる。ここから先は、あまりの高揚に一部の記憶は曖昧だ。

約20余人の僧侶たちの読経を、同じ空間で浴びながら、目を閉じる。

まだ僧侶たちの読経が終わる前にThuptenは、私たちを、僧院裏手の難民居住区へと連れ出した。
リオデジャネイロのファベーラは難民居住区とは位置づけられないだろうから、生まれて初めて訪れる難民居住区になるはずだ。
曲がりくねった狭い路地の脇に、平屋の家屋が連なる。

日に焼けた、網戸越しの "FREE TIBET" に、言葉が出てこない...

一軒の家庭にお邪魔し、バター茶とツァンパ(ハダカムギを粉状にしたものをバター茶で手でこねるチベット民族の主食)をいただく。
チベットはポカラよりも標高が高く寒い。だから、1日に20杯ちかくの濃いバター茶を飲み、寒気の中で固まる上澄みのバターを皮膚に塗り、人々は厳しい自然の中に暮らしてきた。
亡命し、チベットほどの高度を持たない比較的あたたかな各地での生活を余儀なくされた人たちにとって、その濃いバター茶が健康を阻害する直接の要因になった。それでも必死に自分たちの文化、風習を守ろうと世代を大切に重ねる人たちの姿が、ここにある。
2世、3世と移ろう世代の中で、ここでは出生率が著しく低下し、新生児の誕生は数年に一度という状況に直面しているという。
Tupthenは、私たちの目から一時も視線をそらさず、そうした苦難の歴史と、チベットの人々が大切にしてきて、今も大切にしている、ふたつのこと "Compassion - 思いやり" と "Wisdom - 叡智" について、そして、その最も大切なふたつのことによって排除されなければならない "Fear - 恐れ" と "Suspicion" - 疑念" について、話し続けた。

ひとしきり彼の話しが終わると、受け入れてくださった家族にお礼を伝え、再び車に乗り数分の別の僧房へと移動した。

アンナプルナに見守られる、チベット難民居住区

ここは、とても大きな、理路整然とした僧房だ。

ここで、この僧院の若き院長と30分ほどの対話を持つ僥倖にあずかる。
この場所が、これからの未来をつくる修行僧たちの住処として開所してから、最初に招かれて訪れた場所が日本だったこと。その後も継続して、とても敬意にあふれる濃密な交流が保たれいること。そして、中国とネパール、インド国境の往来の規制が厳しくなって以降の、あまりにも理不尽な亡命者への扱いや、悲しい数々のエピソードを聞く。

私自身は、特定の宗教を信心深く信仰していないし、もし何か利害や見解の不一致があるのであれば、それぞれの当事者の見解を公平に理解する必要があるとも思う。だとすれば、なぜ中国はチベットへの政策態度を硬直化させ続けているのか、その深層を中国の立場からも学習する必要があると改めて感じるけれど、そういう理性的な抑制が、この絶望的な状況を解決するとは思えないでいた。

そして、対話の最後に、彼にひとつだけ訊いてみた。

「It might be a tricky question for you, but it would be appreciated if you could share your thought. Are you and your people still aiming to go back to your home land in Tibet where you have lost with historical and political conflicts? - 失礼に当たるかもしれませんが、あなた方は、いまもなお、失われたあなた方の土地であるチベットへ戻ろうとされていらっしゃるのでしょうか?」

と。

Compassion, Wisdom

いま私は、これをネパールからシンガポールに戻った翌々日、ホーチミンシティへの出張へと向かう機上で書いている。

世界は狭く、そして限りなく広い…

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