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ネガティブスタートでも花は咲く

みんなと同じ教室だし、みんなと同じ上履きを履いているのに、なぜかわたしは「みんな」と自分が違うと感じることが多かった。

中学校に上がったら、同じ制服を着る。少し反抗心を持った子達は、先生に怒られるためみたいにスカートをどんどん短くしていった。ずっと標準丈のスカートを履いているわたしをみて、友達がなんで?と問う。「こんな太い脚なんて出せないよ」と言うと、友達は「真面目だぁ!」と笑った。自分とは違うもの、という目で笑った。だってこんな脚でスカートを短くしてもみんなみたいにかわいくなれないんだよ。

他人と自分が違う、ということが苦しくて仕方なかった。友達とおしゃべりをしていて、自分だけ低く響く声でしか話せないこと。ただ勉強を頑張って、やってみたいと生徒会に立候補してみたことや、無心に部活に打ち込んで、キャプテンやら部長やらになり、大会ではエース登録されたこと(エースとして登録されると、トーナメントの配置が変わる)。真面目だね、優等生だね、なんて言われる。わたしが目指してそうなったわけじゃないのに、そんなことを言われる。

ただわたしは目の前のことに必死になってきただけで、なにかになりたいわけじゃなかった。

だから高校生のときは、できるだけ周囲に合わせて、浮かないように過ごした。だけど周囲に合わせて生きるのはつらかった。どんどん薄くなっていく自分の生きる意味を、インターネットに求めた。それでもまだ当時それほど普及していなかったインターネットでもわたしは変わり者だったみたいだった。

やっと社会人になり、デザイナーになり、花屋になったあたりから、何かが吹っ切れた。いつだって他の人と違うことをするようになった。

「なんだ、なんでもできる自慢か」「個性派自慢か」と思われてしまうかもしれないと想像するだけで苦しいのにこんなテキストを書く。何をしているんだろうと思う。

でも、あのとき短くできなかったスカートみたいに、どうしてもわたしは「みんながやっているかわいい姿」「憧れの生活」そういったものができない。やろうとすると、どうしてもただの真似事みたいになってしまってしっくり来ない。似合うと言われるのは、いつだって過激な方のヘアスタイルや、ネイルや、服装だった。

いつでも強がって「だってこうした方がきっと面白い」と、一見わけの分からない行動を取る。統一性のないように見える行動の中には、確かにわたしの直感に従っているのだけれど、どうにも理解してもらいづらいから後付けの説明をする。「これをすることで、本来やっていることにもきっといい影響があると思って」

わたしの発想はいつもネガティブスタートだ。わたしにはこれができないから、他の方法を探して似たような結果にたどり着ければいい、違うことをしないと探して欲しい人に見つけてもらえない、というもの。それがわたしをわたしらしくしてくれている部分もたくさんあるだろうけれど、やっぱり苦しくなるときがある。

どうしたって視界に映る眩しく輝く人たちみたいにはなれない。

それでも、そんなわたしの頭上にも花は咲く。開花宣言がされたばかりの桜も咲く。桜吹雪の中を踊りたい。そうしたらみんな一緒でしょう。みんなただ、桜の下にいるだけの人でしょう。そう思えたら、何か変わるのかもしれない。

最近テキストの振れ幅が大きいですね…w昨日書いたテキストも読んでくださると嬉しいです〜!


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