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それがわたしの存在確認だった それがわたしの。

「いつも描いてる自分の絵じゃない絵を使ってnoteを書きたいなあ」と思って家にあるスケッチブックをパタパタと眺めた。すると、専門学校の卒業制作をしていた頃のノートを見つけた。ピンクの表紙に暇つぶしに乗せられたようなスパンコールが光る。時々ヒリヒリするように自分を追い込む文面があったり、大好きな鬼束ちひろの歌詞が書いてあるページもある。カオス。

でも人間の内面なんてカオスなくらいでちょうどいい、と思う。きれいでシンプルじゃつまらない。デジタルで整えられた今のわたしの絵を見たら、学生のときのわたしはどう思うんだろうか。なんだか急に不安になった。

新しく買ったカメラの「グレインエフェクト」について調べると、いわゆるノイズのような効果を与えてくれるものだと分かった。つるつるしたデジタルの質感に、少し肌触りが生まれるのだという。わたしは積極的にグレインエフェクトを「強」にした。手触りがほしい。いや、何かを手にしているという感覚がほしいのかもしれない。

専門学校に入ったとき、周囲はみんな絵に熱く情熱を注ぐような人たちばかりだった。いつでもスケッチブックに絵を描き、それは授業中でも変わらなかった。わたしは自分の存在確認だと思っていた「絵を描くこと」をその人たちと比べてしまい、自分に情熱がないのだと悩んだ。でも、なんだかんだこうして今も絵を描いている。

水面に広がる波紋のように、少しのことで心は揺れる。わたしは絵を描く人にはなれない、ものをつくる側の人になれないと絶望して過ごした学校生活だった。わたしより個性的な絵を描く人も、上手い絵を描く人も目立っていて、わたしが描く必要なんてないと思えた。だからデザインの勉強により力を入れた。ガンガン絵を描くことが得意な人は自分の作品の見せ方を知らないように見えたから、わたしは中学生のときから触っていたパソコンのスキルを磨いた。つくる人と誰かをつなげようと思った。

つい先日、ガラス越しのミモザを撮ろうとピントを合わせていると「中に入って撮れば?」と言われる。「いや、ガラス越しのこの感じがいいの」とわたしは言い切って、カメラにおさめる。ミモザにかぶった、青い光の反射と、かすかに映る、付近を歩く人たちの影。対象をそのまま写すのもいい。でも、何か匂わせたい。質感を与えたい。何かと繋ぎたい。いろんな気持ちがそれこそカオスになって、わたしの体を相変わらず動かすのだ。

読んでくださってありがとうございました〜!!これからも色々と真面目な文章…というか強い文章?を描くことが増えそうなので、個人的な話も大切にしていきたいと思って書いてみました(^ω^)今後ともゆるゆる衝動的に(?)書いていこうと思います!

自分的エモnoteはこのあたりです〜
👉その苦しみに、ひとつ角砂糖を
👉何者でなくても書いていいんだ

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