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いつか『本当に』結婚出来る日まで


ついつい「新郎新婦」って呼びそうになる。もう口癖になってんだろうな。気をつけなきゃ。

本番前の披露宴会場で自分に言い聞かせる。その日、撮影に入った結婚式には「新婦」がいない。

だから間違えちゃいけない。
新郎新婦って言わないようにな。

でも気をつけるのはそれくらいだ。






新郎が新郎と結婚するだけの話だ。
特別なことは何もない。
そう思っていた。

今、考えるとやはりそれは間違いだ。





若い頃、3年程フランスに住んでいた。御多分にもれず始めのうちは友人も出来なかった。そんなとき、ひょんなことから仲良くなったやけに明るい男、そいつがゲイだった。顔の広い彼の紹介で、僕のまわりはゲイばかりになっていった。

フランスは同性愛に寛容な国だが、僕が住んでいた90年代中盤はまだ同性婚が認められておらず、パートナーシップ制度にあたる PACS も導入前だった。

友人たちは社会的マイノリティだった。彼らは総じて酒飲みでにぎやかで議論が好きで時に悪ふざけが過ぎ、そしてなにより優しかった。彼らの馬鹿笑いと思慮深い眼差しに僕は何度も救われた。

だから、と言うわけでも無いのだけれど、僕はセクシャルマイノリティと言われる人たちに対してネガティブな感情は持っていない。持つ理由が分からない。

偏見はある。性別、世代、職業、趣味、などなど、人が持つ属性のすべてに僕はおそらく偏見を持っている。

「O型はおおらか」
「長男だから我慢できる」

例えば、こんな偏見。偏見という言葉が大げさなら「思いこみ」と言い換えてもよい。何にでも思いこみはあるし、その上で、その手の思いこみが間違いだらけだということも分かっている。僕はO型の長男だけど断じておおらかでは無いし、なにより我慢が苦手だ。

セクシャルマイノリティに対しても同様に何かしらの思いこみはあって、やはりその大半は間違いなのだろう。彼らは特殊でも特別でも無い。だから、この結婚式を撮影するにあたり気に留めた点と言えば、冒頭にも書いた「新婦と言い間違えないこと」一点だけだった。それ以外は何も気にせずいつもの結婚式と変わらぬ心持ちで仕事に挑む。そんな自分を「正しい」とすら思っていた。

だけど、ある瞬間に「正しい」はずの僕の意識は砕かれた。大間違いだった。






パーティー終盤。
新郎から新郎への手紙。
その手紙を聞いて涙が出てきた。

披露宴でもらい泣きをすることは珍しくない。とりわけ僕はしょっちゅう感激し、そして泣く。でも、このときの涙は感動からでは無く、披露宴撮影においては初めての感情に由来するものだった。怒りだ。

新郎が新郎にこう言ったのだ。
「いつか『本当に』結婚出来る日まで」

共に人生を歩むパートナーがいるとする。その人たちが結婚という制度を選ぼうが選ぶまいが、正直どちらでもよいと思っている。当人たちが納得した形で仲睦まじく暮らしていけばよいのだし。

しかし、特定の二人に限り、結婚したい気持ちが法的に認められないとはどういうことなのかな。なぜ彼ら彼女らだけが「本当に結婚出来る日」を待たなきゃいけないのか。その理不尽さに怒りがわいた。怒りで泣けてきた。

そして怒りは自分にも向かった。

新婦と呼ばないこと
それ以外はいつもどおり
特別なことは何もない
新郎が新郎と結婚するだけの話

何を言ってるんだろうね。殊更に普段どおりを強調することで、同性愛なんて普通だよ当たり前だよとでも言いたかったのだろうか。その認識の甘さが腹立たしい。「新郎が新郎と結婚するだけ」なんてね。「だけ」で済まないから彼らは戦っているのにね。

彼ら自身は特殊でも特別でも無い。しかし現実社会においては特殊な存在だとみなされている。彼らを特殊にしているのは彼ら自身では無く周囲のほうで、例えば LGBTQ に無理解な政治や人々が、特殊では無い彼ら彼女らを特殊な場所に据えてしまう。そして置き去りにする。

僕はそうしたスタンスの対極にいるつもりだった。好きなもの同士一緒にいればよいし結婚したいならすればよい。それを許さない「周囲」と自分は違う。そう思っていた。騒がず自然にいつもどおりに。それが当事者への礼儀だし助けにもなる。そう信じてきたのだ。

でも、それでは当事者に届かない時もある。励みにも助けにもなりにくい。何も言わず普段通りを演じる僕もまた無理解な「周囲」の一員だったのだろう。

誰もが自分の立場を表明し旗を振る義務は無い。あくまで僕個人のふるまいの話をしている。涙が出るほど腹が立ったのに、そんな場に居合わせたのに、何も言わず、仕上げた写真を納品するだけで良いとはどうしても思えなくなった。そもそも僕は我慢が苦手なO型の長男なのだ。

だから、この文章を書いた。





この二人は法的には結婚出来ないらしい。なんか知らんけども認められないらしい。法の専門家では無い僕にはその理由が分からない。それでも、結婚式には20年以上携わってきた。2000組以上撮ってきた。ウエディングに関しては専門家だと自負している。少しばかりの私見は許されると思う。











これは結婚式だ。


彼と彼のセレモニーは間違いなく結婚式だった。何の権限も影響力も無いけど大声でおめでとうと言いたい。そうやって声をあげる大切さを、無自覚な失敗から学んだ。二人は結婚したんだよ。



結婚の自由をすべての人に。

それが認められない社会なんて、あってたまるかって話だ。







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