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みんなが死を肯定してしまったら、僕らはどんな生にしがみつくだろう

社会全体でいっせいに死を肯定したらどうなるだろう。
 死が当たり前にある社会ってどんな姿だろうちょっと行き過ぎた世界を想像してみる。「安心安全後腐れの無い死を」、「死ぬ前に最高の贅沢を」、「今スグ簡単に死ねます」、「あなたの死で救われる人がいます」そんなキャッチコピーが当たり前に飛び交う世界。死を前提とした社会があるとそれに付随したサービスがうまれ、貧困ビジネスの様に死のビジネスが広がっていく、そして死のビジネス業界が出来てルールが作られてそれが当たり前になる。
 それはそれでフィクションとしてみれば刺激的で面白い世界かもしれないが、実際にそんな世界があったとしたら僕みたいな意思の弱い人間はすぐに死を選びそうだ。映画とかあれば見てみたいな。
 そこまで行きすぎるのはまずいだろうというのは誰でも考えられるけれど、じゃあどこまでならいいのかというのはやっぱり難しいよね。この世界は生きている人間によって作られている。死後の意見は反映されない。死者の意思とか想いを形にするのは残された生きている人だ、あくまで霊的な存在がないと仮定した場合だけど。全ての物事の大前提に生きる事は善であるという前提でなければ肉体を持つ者たちのほとんどのロジックは破綻してしまう。もし死を一部肯定するルールが出来た場合生きている人が故人の想いを騙り許される余地のあるかもしれない。関わったほとんどの人が許さなくてもルールは許す、そんな仕組みを作ったって後悔するだけだろう、そうやって前に進む事もあるけれど。目先のおかしい事に受け止める時の行動としてすぐに仕組みを変えるだけでなく変化する時その先もよく考えて行動すべきではないだろうか。

テクノロジーの進歩が・・・
 そんな「生きる」の定義を揺るがしている。本来ならば死に至る病も直せる、自分の力で食事をとれなくても点滴に繋がれて生きて行ける、性的な見た目だって変える事が出来る。「主観的に本能的に遺伝子的に刻んで来た生きる」という概念と「客観的に論理的にミームとして紡がれて来た生きる」という概念に相違が生じているのかもしれない。それは最近ではLGBTの問題も同じような相違があると感じている。
 今日まで生き延びてきた僕らの遺伝子に刻まれた「生きるのが正しい事なのは当たり前」という本能に沿って考え事の無かったことだけど、きっとそんなに遠くない未来には肉体の生が始まりで肉体の死が終わりという概念すら変わっていく事はあるのだろう。その時僕らは何に「生」を見出してしがみついていくのだろう。SFの世界がもう間近に迫っているそういうのは現代のとてもワクワクする所だ。

安楽死の話がニュースで流れきたのを見て・・・
 なんかふつふつと沸いた考えをまとめておきたくて書いてみた。ニュースになっている出来事の細かい話は実際よく調べていない。
 僕自身は革新の方向に進むのは好きだけど社会の最大限の幸福みたいな発想で考えるならばやはり変化は慎重である方がいいというのもまた道理だと思う。ネットの世界は肉体を伴わない事もあり革新に寄りがちだと思うけれど、やはりしっかり論点を立てて徹底的に議論して向かう先を決めるべきだと思う。死を絶対悪として忌避してきた生き残りが大多数だからこそ今の社会がある。死は恐ろしいし変化は危ない、度合いは人それぞれだけれど本能的に刻み込まれている。
 生きるのが日々想像を絶するほど苦しくても、自ら死を選ぶ事が出来ないかったら僕はどんな選択をするのだろう。死ねば楽になるかもしれない、死ぬときの痛みとか苦しみなんて日々の想像を絶する苦しみから比べたら大した事がないかもしれない。
 ルールの整備やそれが機能するようにする事も大事だけれど、その中で僕自身は意思とか想いとかに寄り添ってどう生きるかとかそういうのに知恵を捧げたいとそんな風に思う。自動化したり楽していくだけが知恵じゃないはず。

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