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父の人生を変えた『一日』その68 ~同族争い元年は私の就職活動の時期~

その68 ~同族争い元年は私の就職活動の時期~
 私は水澤電機の創業者である水澤重雄(私は水澤茂夫で、英語で書くと同姓同名である)には可愛がられた。創業者はビールをこよなく愛し、しかも、サッポロビールしか飲まない人であった。東芝と共に人生を歩んできた人だけにサッポロであった。三菱系のキリンは飲まなかったのである。この親父さんよく奥さんを注意している姿を見てきた。
『茂夫君 女房は、学校はでているが娑婆をしらない』と良く言っていた。昔の長岡高等師範を(現 大手高校)を出ている奥さんであった。この言葉が将来よく解るほど痛烈な経験となってでてくるのである。
昔、水澤家の電話料・光熱料等全て会社で支払っていた。親父さんが亡くなって数年経った。役員の中には家内工業の会社でも無いので給料を上げて、自分達で支払うようにと進言する人もでてきた。しかし、その状況を言える人は私だけであった。また、一族の年収が高すぎであると意見も出てきたが一族はそれが当たり前であると思っていた。
 その他、色々な事が改められた。親父さんが存命の時にはでてこない批判もでてきた。私は事あることに改めていった。それが一族の反感を一人で受けることになったのである。特に創業者の奥様、名ばかりの専務との確執がでてきたのである。
その時、親父さんの『うちの女房は頭はよいが娑婆が分からない』という言葉を思い出していた。
『婿は出来て当たり前』出来すぎは失格なのである。その奥様はまた、プライドの固まりみたいな人であった。そしてそれは骨肉の戦いに進んでいくのである。私には到底考えられない仕打ちを受けたのである。書き残しておくが、創業者はアサヒビールも許容範囲だったそうです。


~倅の解釈~
 私が大学3年の時、やはり気になったのか親父から連絡があった。
 『お前は就職どうするのだ』
 『英語を使う仕事につきたい。できれば総合商社を目指したい』
 『分かった。頑張れ』
 これが親父と私とのやり取り。
 壮絶な就職氷河期だった私の時代。入社試験だけでも、300社は受けた。とにかく英語を活用した仕事につきたかった。総合商社、中堅商社を受けまくった。ことごとく落ちた。伊藤忠商事だけ残っていた。最終面接まで。内定を頂いた。しかしながら諸事情で内定取り消し。当時の伊藤忠商事が全員を一旦内定停止とした。
 焦っていた。英語をキーワードにブローカー、証券マンも目指した。全て受けた。メリルリンチが6次面接まで残った。18名。全員でトークセッション的な最終面接であった。私以外は3か国語以上を喋れた。勿論、落選。面接会場の外で一人タバコを吸っていたら、メリルリンチの面接役員から声をかけてもらった。
 『君、よかったよ。俺単独だったら、採用。でも時代が時代。残念だったな。』
 『ありがとうございます。その言葉だけでも勇気がでました』
 『内定はあるのか』
 『3社ほどあるのですが、納得いかない企業です』
 『あのね。君のような学生が納得いく企業と行かない企業ってただ単にネームバリューでしょ』
 顔を引っ叩かれた感じだった。この面接官との出会いが無ければ某中堅商社で今頃、中東に居るかもしれない。この後、自分自身が一番相談をしなくてはならない方に相談しに行った。親父である。わざわざ上京してくれて話を聞いてくれた。銀座の寿司屋。今も鮮明に覚えている。
 『親父、就職がなかなか納得いくところ決まらない』
 『ちょっと待て』と言って親父は外に出て、戻ってきた。
 『明日、この会社に行って来い』
 『そうじゃない。決まらないのではなく、納得いかないんだ。会社は継がないんだから親父の息のかかった企業には就職しないぞ』
 結果、翌日、その会社に行った。未だになぜ行ったかは覚えていないが。そこで、試験と面接をうけて、内定を頂いた。合計6社から選ばないといけなかった。水澤電機を継ぐことは頭をよぎることは一切なかった。英語。英語。英語。他5社は確実に英語を使う企業。結果、この電気関係の資材を販売する『商社』に決めた。今振り返っても明確な理由は分からない。ただ、あの銀座の寿司屋で親父が外に電話に行く時の笑顔が今もたまに頭をよぎる。
 親父のエピソードとは全く関係ないことを記載したが、実はこのやりとりの中、親父は同族争いの真っただ中。そんな中で私の将来、未来を的確に導いてくれていた。


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