虫が怖い

   私がこの世で一番恐ろしいのは虫である。

 虫といってもいろいろいるが、最も恐ろしいのは、芋虫のように軟らかそうでくねくねしているものである。「軟らかく」ではなく「軟らかそう」と書いたのは、もちろん触ったことがないからである。あれはきっと軟らかいのであろう。――こう書きながら私は椅子を後ろに引いてパソコンの画面からできるだけ離れている。軟らかそうでくねくねしているという文字を見るだけでも恐ろしい。なぜ恐ろしいのかその理由がまったくわからないが恐ろしい。

 軟らかそうでくねくねした奴の中でも指くらいでかい、キングオブ恐ろしい奴にカイコの幼虫がいる。高校の生物の教科書にカイコを使った実験を見つけたときは気を失いそうになったが、私はすぐに勇気を振り絞って該当のページを糊付けして目に触れないようにし、授業中も修行僧のように心を無にしてなんとかやり過ごした。

 ところが入試によりによってそのカイコの実験が出たのである。内容を初めて見るという以前に、カイコのイラストで私は平常心を失い受験に失敗した。軟らかそうでくねくねした奴はかくも恐ろしいのである。

 軟らかそうでくねくねした奴の次に恐ろしいのは、蛾や蝶のたぐいである。蛾はともかく蝶は優美なものとして愛でられ、恐ろしいというのはあまり理解してもらえないが、蝶は軟らかそうでくねくねした奴の成れの果ての姿なのであるから、騙されてはいけない。

 しかも蝶の飛び方を見よ。蛾や蝶の恐ろしさの原因の一つは、ふらふらと飛ぶその飛び方にある。蜂が飛んでくるのも恐ろしいが、あのひたむきさには敵ながら好感が持てるところがある。飛んでいく方向がはっきりわかるので、こちらも避けようがある。しかし蝶のように右に左にとふらふら飛ばれると、いつ接触するかわからず、こちらの緊張は高まるばかりである。蝶には是非、菜の花に飽いたら桜に止まるといった気ままさを改めていただきたい。

 このように虫が苦手な私には信じられないことであるが、世の中には虫が好きだという人もいるし、驚くべきことに特に好きでもないが触れないことはないという人に至ってはもっと多い。すなわち、人類の大半が虫に触れるのであって、私は日々、そういう人たちに助けられて生きている。有り難いことだ。

 たとえば結婚当初など、葉物野菜に軟らかそうでくねくねしている奴がついているのを発見し、叫び声を上げて夫に助けを求めたものである。――その声が筆舌に尽くしがたい奇声であったため、夫の顔は恐怖に歪んでいたのであるが。ほんとうに虫が苦手な同類の皆さんにはご理解いただけることと思うが、こういうとき「きゃっ」などという、新妻にふさわしい可愛い声は出ない。夫は三度目くらいになると無言でやって来て、無表情で虫を始末するようになった。愛情というのは儚いものである。

 私の場合、壁に張りついている蛾をなんとかしてほしいとか、小松菜に付いている軟らかそうでくねくねした奴をとってほしいとかいう要請は、真に差し迫った恐怖に駆られてのものであって、なんら下心はない。しかし世の中には、虫に触れないことはないのに苦手な振りをして可愛い子ぶる女子が存在するので注意が必要である。ほんとうに虫に恐怖を感じているのかどうかは、その軟らかそうでくねくねした奴をつまんで目の前にぶら下げてみた反応でわかるので、賢明なる読者諸君は参考にしてほしい。

 もしそこで「きゃっ」などと可愛らしい反応が返ってきたらクロである。その場合は是非、虫が怖い振りまでして気を惹こうという、その健気さを酌んであげてほしい。私のように虫に恐怖を感じるのがむしろ例外で、女子がみな虫を怖がるわけではないことなど、ミエミエでわかりきっているのだ。我が国には古来、虫愛づる姫君のような例もあることだから。

ありがとうございます。