私たちはちょうど始まったばかり(1)

テールランプと水溜まり

 窓の外は時間も遅くなり暗くなってきたことと、渋滞のせいで、もうずっと変わり映えがなくなっていた。それに見飽きて、左に座る託人に目を切り替えると、前に停まる車のテールランプで顔から首元まで真っ赤に染まっていた。乗る直前に飲んだ鎌倉ビールの酔いはすっかり醒めきっているみたいだ。
 同じサークルや部活でもなく、教養の類の授業で知り合った四人なだけに、共通な話題というのは殆どない。あったとしても、この旅行でしぼりきっていた。耳当りのいい穏やかなラジオがだらだらと自由に流れている。
 疲れのせいかぼうっとしている託人に、何か話を振ろうか――。侑二は、またなんとなく目を外に戻して肘をかけると、てろん、と自分のスマホが通知音を発した。
 運転している修也以外の二人――侑二の左前に座る健はすっかり眠り込んでいると思ったのに――がそろってこちらを向いた。
「彼女か」
 健がにやにやし始めた。
 違うと思うけど、と侑二は言い、グレーのツイードジャケットの右ポケットから大きくて薄い四角を引き抜く。酔いやすいからあまり画面は見たくないんだけど。
「明日のお昼、久しぶりに一緒に外でとりましょう」
 区切らずに一息で送ってくるあたりに透子らしさを感じる。わかった、と返して顔を上げると、健はまだ座席の間からこちらを見ていた。
「当たりだったのか」
 本当に驚いたように託人が言う。まだ何も言ってないのに。
「リア充は羨ましいね」
 四人のうち唯一彼女のいない健は、あらかじめ配られた台本があるかのようにそう言って、前に向き直った。この状況を傍から見れば、外国映画のいじめっ子に囃される構図だ。
「健は理想が高いから」
 ウインカーを光らせながら、優しい声で修也がなだめると、健は後ろにも見えるように肩の上でぴらぴらと振ってみせた。直接見えなくても、今の健の表情が手に取るように分かる。
 また――とそう言って健はさっき途中で買ったお菓子の封を開く。
「また、変な内容だったの?」
「変じゃないよ」
 侑二はなるべく笑みを込めて言い返す。
「ああ、変わってる、だ」
「いや、明日の昼食べようって」
 ふーん、と健は不満そうにお菓子をほおばりながら、乱雑に話を切り上げる。逆に怖いよな、と修也は健に向かって笑った。
 確かに、侑二の彼女は変わっている。でもきっと、それは悪いことじゃないと思っている。普通のカップルとは距離感というかスタンスというか、そういうのは明らかに違う。それでも良い。こう透子が望んでいるのだとしたら。プラトニックなんて、良い響きじゃないか。
「まあ、侑二も変わってるとこあるもんな」
 託人はこの四人のうち一番仲がいいだけに、たまに侑二の扱いが雑だ。けれど誰も否定してくれなかった。
「そろそろケンカかな」
 修也が、どうせ思ってもいないことを口にする。健はまた振り向いて、期待してるぜ、と表情で訴えかけてきた。
「全く心当たりがないよ」
 高校三年の秋と冬の間に付き合い始めて、もうすぐで三年になるのに、侑二と透子は一度もケンカをしたことがない(透子が不機嫌になることはあるけど)。自慢と言えば自慢になるのかな。
 ふたたび外を見ると、いつの間にか渋滞はとっくに解消していた。四人は夜に紛れてぐんぐん進む。大学生らしい、半突発的小旅行も終わりが見えると、最初は渋っていてもすこしは寂しくなるもんだな、と一人感心していた。

 良好な大学生活。私の成績やスケジュールを見れば、誰もがそう判断するだろう。
 どちらかというと真面目でない人の方が多いなかでそれを保つのは並大抵のことじゃない、といつか彼は言ってくれた。こんなチープな褒め言葉にも、昔はすっかり嬉しがっていた。
 それでも、学生という身分である以上それは義務であり、そうあるべきなのだ、と言い聞かせる。
 ベルも鳴ってぞろぞろと人が出て行く教室でゆったりと時計を見ると、待ち合わせまでちょうどいい具合だった。
 透子と侑二は同じ大学ではなかったけれど、偶然にも最寄り駅が一緒だった。かといって毎日会うわけでもないのだけれど。
 でもこのくらいがちょうどいいのだ、と透子は長らく感じていた。同じ大学だなんてきっと息がつまってしまう。お互いがその気になったら会える、ちょうどいい距離。
 透子は、もうずっと使い続けている黒いリュックサックの口を開き、机の上に出していたものたち――安価な紙に刷られたプリントに、布製のペンケース(同じく黒の)――をしまい込んで、ぴちっとした浅い色のスキニージーンズが机と机の狭い間をするすると抜ける。
 透子が講義を受けていたこの棟なんかはとくに古い。だから廊下に立ちこめる匂いは昔――といっても具体的にいつかは思い出せない――を彷彿とさせる。いつものクセで早足になってしまうのを抑える。ゆっくり歩いたって十分ほど前に着くんだから。
 それに、これから合う予定の喫茶店は透子が提案したところだった。通いつめてはいないものの、何度かは行ったことがある。
 透子と侑二の間には、誘った方がお店を決める、という暗黙のうちのルールがあった。だからもちろん、侑二が決めるときもあったのだけれど、それは駅を出て目の前だったり、どこにでもあるような大手チェーンだったりと、言ってしまえばセンスがなかった。透子にとって侑二の一番の短所は、そのセンスの無さだった。
 ところどころに小さい水溜まりがあり、それに陽が反射する。こう湿っているのは嫌だけれど、キラキラしていてのぞき込むと中に空があるところが、透子は幼い頃から好きだった。道路も、その水溜まりの中も同じように汚いはずなのに、どうしてそこに映るのは、綺麗に見えるんだろう。
 横断歩道もあるのに、透子は歩道橋を使う。下よりも少しだけ澄んだ(気のする)空気を深く吸い込む。やっぱり、下は息苦しくっていけない。透子はまるで水を得た魚のように、いきいきとし始めた。

今まで一度も頂いたことがありません。それほどのものではないということでしょう。それだけに、パイオニアというのは偉大です。