見出し画像

イマジンと伊勢神宮

【3820文字】

アメリカ人

の半分が未だチャールズ・ダーウィンの進化論を17世紀以来ずっと否定し続けてるとか、イギリスではジョン・レノンのイマジンを葬儀でかけるのを禁止してるとかいう話を聞くと、無宗教の僕などには西洋における宗教イデオロギーの根深さに少し空恐ろしいものを感じたりもする。

クリスチャンは

ダーウィンの進化論に「人間はサルから進化した」と書いてあるのが気に入らないそうだ。ユダヤ教では「神ヤハウェが土から天地創造の6日目に人間を造った」と書いてあり、キリスト教では「神が天地を作り、動植物を作り、最後に人間をつくった」事になっている。地球誕生の後46億年後にサルから進化した人間らしいものが発生した、という科学的事実など、彼らにはとても受け入れ難い事なのだという。

1633年に

ガリレオ・ガリレイが宗教裁判で断罪された。地球が宇宙の中心ではないというコペルニクス以来の科学的論証がローマ・カトリック教会の琴線に触れたのだ。彼らにとってはあくまでも地球が宇宙の中心でなければ都合が悪かったのだ。どんなに科学的証拠があろうと、多勢に無勢の宗教裁判は最初から有罪一択だったに違いない。しかしその後人類が月に到達し、数えきれないほどの人工衛星を飛ばし、他の惑星や小惑星を探査する時代がやって来て、とうとう1992年になってローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、ガリレオの「地動説」を断罪した宗教裁判のあやまちを公式に認め謝罪した。当の本人がとっくに死んで300有余年後の世で謝られてもなあと思う。

イギリスの葬儀で

イマジン禁止というのも似たような理由からだ。このイマジンの歌詞を問題にしている。Imagine there’s no Heaven「天国なんて存在しないと想像してごらん」という箇所だ。キリスト教では死者は皆天国か地獄に行くということになっている。その天国や地獄がないとされてしまうのは宜しくないという訳だ。天国や地獄があると信じる人がいても、そんなもんありゃしないよと考える人がいても、別にいいじゃないかと典型的な無信教の日本人である僕なんかは思ってしまうのだが、宗教というのはどうもそうはいかない面倒なモノらしい。とはいえこれはイギリスの法律が禁止している訳ではなく、イギリスの葬儀屋さんが教会や聖職者に忖度して自主的に禁止しているということらしい。優先順位は死んだ自国の英雄よりも、そこはお金をくれる生きてる人なのだろう。ともあれ問題にしなきゃ問題にならなかったことを取り立てて問題視するから宗教周りにはイザコザが増える。

さてなぜジョン・レノンは

天国なんてないと想像しろと言ったのか。そもそもこの人はシニカルなジョークが大好きな人で、「安い席の方は手拍子を、それ以外の方々は宝石をジャラジャラさせて」とか「僕たちはキリストより人気がある」と発言したりする。
イマジンでは「天国なんて存在しないと想像してごらん。地獄もありゃしない」「そして、宗教もない。そうしたら、みんな平和に生きられる」と歌う。
そりゃもう世界中のキリスト教保守派層から、神を否定し冒涜する歌だ!という事でえらく反発を受けているらしい。ジョンも元々キリスト教圏の人なのだから、そんなことを歌詞にすれば炎上必死なのは承知だったはずだが、それでも天国も地獄も、宗教もないと歌詞にした理由は、なんと日本の伊勢神宮での出来事がジョンを駆り立てたのだという。

ヨーコの従兄に

加瀬英明という著名な外交評論家だった人がいた。ジョンはこの人と伊勢神宮へ赴き日本の神道について教わったという。壮大で神聖な空気を漂わせる伊勢神宮に感じ入ったジョンは「伊勢神宮とはどんな宗教か?」と加瀬に尋ねる。加瀬は伊勢は宗教ではなく信仰だと答えた。ジョンにはすぐその意味が把握できなかったらしい。
「ここには天国や地獄と言った荒唐無稽なものはなく、信仰だけがある」
ジョンはやはり分からない。そこで加瀬はジョンに質問した。
「では君の国には、くまのプーさんの森があるよね。プーさんの森というのはどんな風なイメージなんだい?」
「プーさんの森は人間もクマもカンガルーもみんな・・・差別がないんだ!」
「プーの森には教会がない。だから、みんな一つになれるのか。宗教がなければ、人は繋がるんだ!」
「戦わなくて良い」
「想像すれば良い、想像してみよう」
「全ての人が繋がって、そして大いなるものの中に包まれているその安心感を想像して、宗教がなければ一つになれるという世界を」
こうしてできたのがかの名曲「Imagine」であったという。
(参照先: https://zinja-omairi.com/akatsuka-3/

この感覚は

日本人である我々なら大した苦心もなく解釈する事ができる。しかし欧米の一神教信者には理解しにくい事らしい。日本人なら厳しい戒律やしきたりに従ってお伊勢参りをする、そんな感覚は誰も持ってないと思う。むしろ旅行気分で行ってみたら思わぬ神聖な空気に癒されてしまった、という感じではないかと思う。お参りではあるが何々をしなくてはならない、という強制感がほとんどなく、その場にいる全ての人たちがお伊勢さんというワンワードでつながっている感じさえする。そこまで具体的な何かを感じなくても、誰しもなにか心休まる神聖な感覚にはなるのではないだろうか。
つまりそれこそが「平和」であるとも考えられる。平和な気持ちを体現できる場所が伊勢神宮であり、恐らくその場に身を置いたジョン・レノンもその底知れぬ平和感を感じて「いったいこの感じはどこから来るのだ?」と思ったに違いない。

ジョンは若いころ

から革命を起こせといった内容の歌詞をいくつか書いている。相手は権力や財力、または古いしきたりや理不尽さのようなものだったが、我々民衆や労働者はそれらと闘わなきゃならないのだと歌っていた。しかしこのイマジンでは「闘え」どころか「想像してごらん」としか言っていない。血や涙を伴う報復の悪循環に陥る闘いはもう必要はないと気付いたのかも知れない。それに気付かせたのが伊勢神宮だったわけだ。

昔の日本には

神様や妖怪といったものが自然そのものであり、人如きが太刀打ちできる様な相手ではなく、なのにこの現生のそこら中に存在しているという感覚があった。火にも風にも星にも、全てに神が宿っていた。仏教もまだなかったころは空の遥か高い場所に天国があったり、地中深くマグマの側に地獄があるだなんて考えていなかったのではないだろうか。加瀬英明氏は「日本人にとっての山や、森や、川や、海という現世のすべてが天国であって、人もその一部だから自然は崇めるものであって、自然を汚したり壊してはならない」と日本人なら至極当然だと思う事をジョンに言った。ジョンはその言葉にも大きく感動し納得したという。

人が

その自然という天国の一部で生きて行く上でのヒントが、真偽は別として古い大衆民族の言い伝えとして多く残っている。
夜口笛を吹いてはいけない、陽が落ちた後に爪を切らないこと、食後に横になると牛になる、朝の蜘蛛は友 夜の蜘蛛敵、カラスが鳴くと不幸が押し寄せてくる、枕を北にして寝ないこと、雷様がヘソを取りに来る・・・
これらは確かに宗教ではないし、なるほどそういえばこういう事こそが信仰なのかもしれないと今更思う。そう聞かされて育てば大人になってそんな馬鹿なと思いながらも夜道は静かに歩くし、枕はやはり北向きにはしない。これらは何かしら先祖からの注意喚起なのだ。日本全国の水辺に河童伝説が多いのも、地名に「津」「焼」「梅」「竜」などが付けば過去の災害を示唆していると言われるのも注意喚起だと言われる。一見きれいな文字でも例えば「桜」などが付く場所は、土地が「裂く」「割る」と言った意味で、その土地の危険と符合するという。ではかと言って河童の出そうな水辺をかたっぱしに埋めてコンクリートで覆い、自然と闘えと言っているかというと、決してそうではない。この地域には人を受け入れない自然の摂理があるから気をつけろと言っているに過ぎないのだ。住み分けはちゃんと守れということかもしれない。あくまでも自然の一部に人間が居候させてもらっているのだ。その奥ゆかしさが日本人らしさだったはずであるが、現代の日本人はどうか。
話が逸れた。

そこで今一度

イマジンの歌詞を読んでもらえれば、少しまた違ったように感じられるのではないか。一神教の文化からすれば、きっとすごい歌詞なのだろうと思える。大自然のそこかしこに神や妖怪を感じる日本人には、ある意味ごく普通の歌詞に聞こえるが、これがそのまま海外の感覚との誤差、ズレと言ってもいいのだろう。しかし命の重さに違いはない。世界に大きな紛争が起こっている今、そんなことを意識しつつ再びイマジンを聴き直してみるのも、平和への一歩かもしれない。


~ Imagine ~

想像してごらん
天国なんて無いと
やってみれば簡単さ
僕らの下には地獄もない
上にあるのは空だけ
想像してごらん
すべての人々が
ただ今日を生きてると

想像してごらん
国なんて無いと
難しいことじゃないさ
殺める理由も死ぬ理由もない
そして宗教もない
想像してごらん
すべての人々が
ただ平和に暮らしてると

君は思うかも
僕が夢想家だって
でもそれは僕だけじゃないんだ
君もいつか仲間になってくれたら
そして世界は一つになるんだ

想像してごらん
何も所有しないって
君にも出来るんじゃないかな
欲張ったり飢えたりする必要もない
人類はみんな兄弟
想像してごらん
すべての人々が
世界を分かち合っていると

君は思うかも
僕が夢想家だって
でもそれは僕だけじゃないんだ
君もいつか仲間になってくれたら
そして世界は一つになるんだ