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正しさと運転手

 後部座席のお客さんは、無口ではあるが、無愛想という訳ではなかった。バックミラーを見る限り、彼はまるで記念撮影のポーズでも取っているみたいに、背筋をまっすぐに伸ばしてピクリとも動いていなかった。あるいは、初めて教室の椅子に座った、小学一年生のように緊張しているのかもしれなかった。俺は余計なお世話だと思ったが、声をかける事にした。

「大丈夫ですか?一度、停めましょうか?」

「大丈夫です。いや……やっぱりお願いします。どこかでトイレに行かせてください」
 声が少しばかり上ずっていた。もしかしたら、彼は声をかけられるのを待っていたのかもしれなかった。一度「大丈夫」と言っておきながら、すぐに言い直すあたり、やはり、緊張しているのだろう。

 そもそも、死んだら小便などでない。ただ、死んだばかりの時は、生きている時と同じような感覚が残っている。彼の気が済めばそれでいいと思い、俺はコンビニに車を停めた。小便器の前に立つだけで、観念的に済ませた気になる。それだけで気持ちが楽になる筈だろう。
 車を停めて、お客さんがトイレに入ったのを確認した俺は、駐車場代かわりではないが、コンビニで欲しくもない缶コーヒーを買った。不要な買い物だが仕方がない。

「すみません。お手数おかけしました。折角停めていただいたのに、出ませんでした。やっぱり私は死んでいますね」
 慣れてきたのだろうか。再び後部座席に座ったお客さんは、急に舌が滑らかになった。

「そうですね。死ぬ事というのは、一瞬の現象ですから、実感しにくいかもしれませんね。人によっては、苦痛を乗り越えた感じもするそうですがね」

「はぁ。そんなものなんですね。死ぬっていうのは、何というか、壮絶なものだと思っていましたが、案外、普通なんですね」

「まぁ、お客さんのように、死が突然訪れた場合は、特に実感がないのかもしれませんね」

 迎車に伺う際には、最低限の情報を配車担当者から教えられている。このお客さん、見た目や挙動と違って(と表現するのは失礼かもしれないが)勇気ある人なのだ。
 俺達運転手に明確な規範などないのだが、俺達はお客さんを、がっかりさせたり、恐れさせたり、慰めたり、そんな事をさせるような存在ではない。お客さんに余計なことを伝えることはない。俺達は単なる運転手だ。それ以上でもそれ以下でもない。お客さんの行き先についての詳しい事は知らない。ただ、目的地に送り届けるだけ。

「いやぁでもね、自分でも驚きましたよ。なんていうか、こんな感じで死ぬのかって思っちゃいました」
 再び声が上ずっていた。このお客さんは、こういう頼りない話し方が癖なのだろうと俺は決めつけた。

「多くの人は、心臓が高鳴って、怖くて動けないか、逃げるしかできませんよ。その点、お客さんはよくああいった行動ができましたね」
 俺なりに慎重に言葉を選んだ。必要以上にお客さんを慰めてはいけないという事を俺は知っているからだ。

「でも、死んじゃったら意味ないですよ」

「まぁ、結果こうなりましたが、お客さんに救われた人もいるのは事実です」

「別にね、私は正義の味方になりたいとか、そんなんじゃなかったんですよ。たまたま、あの日、あの新幹線に乗っていて、ああいう事件に巻き込まれた。それで、私は立ち上がった。なんでしょうね、そうするように、予め決められていたのかもしれません」

 暫くの間、沈黙の時間が流れる事になる。多くのお客さんがするように、彼もまた窓を眺めた。人が歩いている。俺もふっと右眼で外を見た。その人が歩く先の事は、俺にはわからない。わからないけれども、あの人も誰かに会い、誰かと笑いながら食事をするのかもしれない。
 他人というのは、一番近い神秘だ。すれ違った人には、その人の世界があり、共有しなければ、それが本当の世界なのかを確かめる事ができない。
 別の言い方をすれば、自分の事だって確かめられない。自分の世界に生きていながら、自分が感じている事が本当なのかと確かめる手段は、他人と関わる事でしかないような気がする。自分の行動に意味があったかどうかも、他人に判断してもらって、「そうかもしれない」と思いこむ。そんな事ばかりだ。

「私のしたことは正しかったのでしょうかね。他の人を守ったとしても、私は死んでしまった。その事で、私の妻はどう思っているのでしょう。私は彼女の為に、逃げてでも、生きるべきだったのかもしれません」

 それも真実だ。そう思う彼の気持ちを、推し量る事は畏れ多い。俺にはわからない。本当の意味の正しさは、他人に判断してもらう事でも、自分で納得する事でもないような気がする。本当は、正しさも、間違いもないのかもしれない。

「正しかった。私はそう思います。正しかったから、救われた人がいて、そうでない人もいるのかもしれません。全ての人に同じ事ができなくても、お客さんは正しい事をした。立派です。そういう事ですよ」

 静かだった。背筋をまっすぐ伸ばして、お客さんは「そうですか」とそう言ったきり、再び黙り込んだ。

「着きました」

 俺はドアを開けた。

「運転手さん。ありがとうございました」

 彼は短くそう言った。
 俺はそれでいいと思った。


おわり

 


 


 

一日延ばしは時の盗人、明日は明日…… あっ、ありがとうございます!