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まっちーってどんな人?前編(~大学入学)

とりあえず自己紹介しようかなってことで初めて詳しく書こうと思います。

改めましてこんにちは!町田凌一と申します!
小学校低学年から「まっちー」と呼ばれていて、下の名前は一向に覚えてもらえないので最近では全SNSで「まっちー」表記で統一感出してます笑


生まれは広島、育ちも広島

タイトルにもあるように広島県広島市で生まれました。誕生日は9月28日ですが、予定日が2週間前の9月11日だったらしく両親はずっとソワソワしていたと聞いたことがあります。
小さい時からこだわりが強くて今となっては訳の分からないエピソードとして、当時あった毎日の天気予報が見れなかったら大泣きしていたようです(苦笑)

サッカーを始めた小学生

サッカーを始めたきっかけは佐藤寿人選手に憧れを持ったことです。
未就学児で集まって遊ぼうみたいなコミュニティがあったらしく、参加メンバーの一人に元サンフレッチェ広島の佐藤寿人選手の子どもがいました。そこから○○君のパパがテレビの中でとても活躍していて「え!かっこいい!!」となったようです。

思い返したときに一番心に残っていることは4年生あたりで父が東京に単身赴任になったことです。次の月から3人(母、妹、私)で過ごすイメージがつかず、よく分かっていなかったです。そこから高校卒業までの7年半この生活が続くことも予想していなかったです(だからこそ、父とは家族感のあまりない関係性が築かれて良き相談相手になっています、感覚的には叔父さんみたいな?笑)

気付いたら終わってた中学生

近所の公立中学校に進学して、悪くも良くもない成績を取って気づいたら卒業していました。
授業で課される宿題だけは完璧にこなして、放課後に週4回の部活をして週2回の塾に行って寝る生活を3年間過ごしてしまったのでもっと楽しんでおけばよかったな~と、、
高校受験を完全に舐めていて、「なんとかなるさ~」って思っていたけど行きたかった第一希望の高校には届かなかった。滑り止めで受けていた私立高校に行くことになりました。今は違うのかもしれないですが、受験方式に専願制度というのがあって公立受験に落ちたら必ず行くものでした。なのでいわゆる名前を書いたら合格すると高を括っていたのでずっと舐めた態度を取っていました。まじめに勉強はせず、やっている感だけを演出することだけが上手になりました(これが人生最大の挫折の原因になりますが。)

今のスタンスを作った高校生

やっている感の上達

入学選考の形式が「学費半額免除」だったのでどこか謎の優越感に浸っていたことを覚えています(周囲に半額免除の友人がいなかったことから)
高校1年間は部活にも入らず、難関国公立大学を専攻するコースだったこともあり、形式的に自習室に籠り「それっぽく」勉強する日々でした。今考えると、自習室で勉強する自分がカッコいいと思っていただけだと思います。もちろん、周囲からは毎回授業が終わると自習室に行き勉強していると見えるのだからすごいと思われるし、そう思われたい願望があったのだと思います(実力が伴っていないのだから努力のやり方を間違っているとしか言えませんが...)

私のターニングポイント

高校1年の夏のある日、家に帰ると母校を取り上げるニュースが放送されていました。
150年あまり続く男子校が来年から「共学化へ」
驚いたし、今後どうなっていくんだろうと思う反面、率直な感想として1年早く始まってよ!と思いました笑

それと同じくして、2年生から探究活動の授業を試験的に導入すると発表されました(‘21年度からカリキュラム導入だったので私たちの代で試験導入したようです)最近では耳にタコができそうなくらい聞く「SDGs」について初めて知りました。
私たちの高校の探究では、学生一人ひとりが1年間取り組むテーマを決めて活動を行いクラス発表→代表発表(全校生徒に向けて)というものでした。私が取り扱ったテーマは「制服」でした。共学化して初年度で学ランだった制服がブレザーに変わり、女子生徒はネクタイorリボン/スカートorスラックスが選べて選択肢が増えていました。制服を制作した会社への取材や新制服を着用している生徒120名全員にアンケート調査を実施して、「今の学生にとって受け入れられる制服はどのようなものなのか」というタイトルで発表しました。

クラス発表の結果、1位タイでした。
衝撃的なのが、同じく1位だった人は小数点第2位まで評価が同点だったことです。これはもう、、決められないということでじゃんけんをすることになったのです。そして、ジャンケンに勝ってクラス代表に選んでいただきました。このジャンケンが今の自分を作っているといっても過言じゃないです!!!!
クラス発表から1か月後、全校生徒が集まる体育館で発表して最優秀賞を取ることができました。それからすぐ、新聞部の部員から校内掲示用に取材していい?と聞かれました。その新聞部の部員とはクラス発表で同点となり、ジャンケンをした本人です。その取材が終わりかけるタイミングで顧問の先生に発表の活動を部活内でやらない?と声をかけてもらって、即決入部を決めました。高校2年の11月なのになぜOKを出したのか今でも分かりません。
あの時、ジャンケンに勝っていなかったら、最優秀賞もとれていないし、取材も受けていないし、入部もしていないし、「運命」を感じ感動しています。入部後のやってきたことまで書くと分量がバグるので今回は控えます。
第46回全国高等学校総合文化祭新聞部門最優秀賞(新聞部の全国大会1位)を取ることができました。

地獄の受験期スタート

この成果をもって推薦受験での広島大学総合科学部を志しました。
そのために3つの自己推薦型の出願を行う、今考えるとバカとしか言えないスケジュールを組んでいました。そんな過密スケジュールだったので2週間に1回異なる問いを持つ志望理由書や自己アピール書を書いていました。ここで高校受験期と同様に「受験」を舐めていました。何とかなるだろうと。

結果からいうと、、全く何とかなりませんでした。推薦受験で出願していた3校すべてが不合格、滑り止まりと言われる私立大学に3校ほど出願しましたが、すべて不合格でした。つまり、滑り止まらなかったわけです。今考えると、どれだけ受験を舐めていたのか計り知れないなと思います。それと同時に多額の受験料を出してくれた両親には感謝しかありません。
、、ということは一般受験しか選択肢が残っていないと絶望した2021年12月3日を忘れることはないと思います。何をしていても涙が止まらない日でした。しかし、この日よりも病み落ちる40日が始まりました。

まず、やっている感ばかりの勉強しかやってきておらず、きちんとした努力のやり方を知らなかった。自分の勉強のやり方が確立していなかった。
受験勉強以前のことにハードルを抱えていて一向に結果は出ませんでした。3日間家から出ず、夜になって家の近くの公園に散歩して、どうしたらいいんだろうと明け暮れていました。そんな日々が続き、あっという間に共通テスト当日を迎えました。結果は国公立レベルで行けるところがほぼないという状態。そこで担任の先生に提示いただいたのが北九州市立大学地域創生
学群
でした。それを聞いた素直な感想は「え、北九州ってどこにあるん?地域創生ってなに?学部じゃない?学群ってなに?」

共通テストE判定・倍率5.3倍を勝ち抜いた

私にはそこに行くことしか選択肢が残されていなかったので心の切り替えはすんなりいきました。そこからの熱量と集中力は我ながら異常なものでした。大学の存在を知ってから、1か月半ほどの時間が残されていた期間でできることはすべてやりました。(試験はグループディスカッションと小論文)過去問として閲覧できる小論文はすべて解いて同系統の小論文も読み漁って、どんなテーマが出題されるか分からないグループディスカッションでは知識の引き出しがどれだけあるかが重要になると思ったので「地域」にかかわるあらゆる記事やデータをインプットしていきました。長いときには1日10時間調べものをし続けるみたいな変な生活をしていたことを覚えています笑
この努力のおかげで無事北九州市立大学地域創生学群に入学を果たせました✨

進んだ選択を自分の手で「正解」にしたい

もちろん、進学に喜びましたが元々行きたかった場所ではないからこそそ、の当時は後悔すらしていました。しかし、この地創に進学する事実は変わらないし選択できる自由すらないくらい自分には力がないことをきちんと受け止めないといけないと思うようになります。
後悔しながら卒業するのは嫌だから、北九州に来て良かったと思える行動をしていこうと思って大学ライフが始まります。

長々と大学進学までの振り返りをしてきました。高校生の内容が濃すぎてバランス崩壊していますが、お許しください。
ここまで読んでいただく方が1人でもいれば嬉しいです。
後編は「後悔しないために」何をやってきたのかどんな思いがあったのか大学2年間を振り返ります。
読んでいただきありがとうございました!!




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