曖昧な世界に漂うということ

こんにちは!
昨日まで元気だったのに理由もなく落ち込んだ今日を過ごした松澤です笑

正確に言うと、落ち込んでいることが認識できないくらいに感情がなくなり休憩時間にも何も考えず、ボーとしていたら今日が終わっていました。
自分の感情が他人事のように通り過ぎ、これまで書いた文章にも愛着がわかない。
自分が誰なのかわからないのではなく、私がどこかに飛んでいき無が広がっていく。

連日誰かと話し続けたり、明るい自分であり続けるといずれ現れる別の自分です。
生きることを明確に意識していけば、なくなる瞬間かと希望を持っていましたが現実はうまくはいかないようです。

正直絶望的ですね笑
だれかといずれ時間を過ごそうとしても、それが原因で自分の感情が失われるとなると私は一体どんな人とどうやって一緒に生きていけばいいのでしょうか。

こんな状態になった時私は本棚にあるまだ読んでいない本を手につけることにしています。
これは友人が言っていた「人が虚無になった時のやり過ごし方」です。
ひたすら本を読み続けて(その人は10時間くらい平気で読み続けることができるようですが、私は数時間で1日の限界が来ます笑)飽きたらやめるを繰り返す。
ですがこの対策は効果大でなんとか文章を書くことができるまでに復活を遂げているのです!

さっき、つげ義春さんの「ねじ式」を読みました。
これは小説ではなく漫画です。りんたろうさんが脚本を、AKIRAの作者大友克洋さんが短編のうち一つを担当する劇場アニメ「迷宮物語」の感想をネットサーフィンにしていたら見つけた作品です。

ねじ式は起承転結はあるのですが、終わりをひきづる。けれども嫌な気持ちにはならない不思議な短編漫画集です。

私は俳優/佐野史郎さんが書いたあとがきが心に留まりました。

ゆるやかな世界、あるいは張りつめた世界、どちらかだけのわかりやすい世界。そこでは自分のしていることがよくわかるし、確認しやすい。
けれどもわかりやすい世界なんて、そんなものが本当にあるのだろうか。

そして続きます。

あいまいだったりわからなかったりすることは悪いことの代名詞のように相変わらず言われている。確かに世の中の関係をスムースに行かせるためには、はっきりさせなくてはいけないこともあるだろう。けれどもそれだけではない。それと同じくらい、わからないことでも言葉にしないで通じ合うことができる、そういう訓練をしていかなくてはいけないと考えている。

私の今の感情は言葉に表すことができません。
何を思っているのかわからないのです。
まず何かを考えている状態に自分があるのかもわかりません。
でもいつかこの感覚を理解できるようになるまで、わからないことはそのまま態度に現れ、理解できないことはそのままそっと見守っていけたらいいと思います。

時間がとまったような無の空間も「自分を観察し変化を見つめる」ための経過に過ぎないとしたら、私は静かにその変化を待つことができるような気がします。

そしてこの変化の段階を誰かに気づいてもらえるのなら誰かの手を取ることができるかもしれません。

それではみなさん良い夜をお過ごしください。
今日は溜め込んだ積読消化日になりそうです。

P.S 私はこんな状態に陥った時にすることがもう一つあります。
本を買うことです。
昨日は高野文子さん、立原道造、その繋がりで魚楠キリコさん、 新井素子さんを買いました。つまりまた本が積み上がり、積読本はなくならないのです笑

松澤

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