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【短編】あの日の思い出たちへ

 公園へ行くと懐かしい気持ちになる。ゲームがそんなにない時代に生まれた身としてはこうやって街の公園を練り歩くことが何か日課になっていた気がする。
 
 この年になって公園で遊んでいる子供たちを眺めていると
 
「ああ、あの時代と案外変わらないのかな」なんて思ったりする。
 
 よくやっていた遊びは遊具を使った鬼ごっこみたいなやつで、ルールは簡単。遊具のうから地面に落ちたら負け。地面につかないように遊具を渡っていき、鬼から逃げるというものである。
 
 私の近所にあった公園がここら辺では一番大きくて、遊具もデカい。
 
遊具というよりもアスレチックのような風体をしている。今思えばこんな場所で鬼ごっこだなんて、よく怪我をしなかったもんだと思うのである。
 
 いつの間にか子供時代に出来ていたことが出来なくなっていき、いつの間にか大人になったころには怪我を恐れるようになっていった。ただ転ぶだけの怖さを知って、痛みも知った。
 
「痛くなる可能性があるもの、危ないことはしないほうがいい」
 
 自分の保身を高めていって、それでいて安全圏に座ったままで。その先に新しい発見も無くなって、灰色の景色だけが自分の視界を覆っていったら、見えてくるものは
 
「輝かしい未来ですか?それとも絶望への入り口ですか?」
 
 それを誰かに尋ねる勇気すらもなくて、こんな文章を書いていたら白い目で見られるようになって、それでも、それでも
 
「やりたい勇気が心の中にあるのなら、それをやらないと」
 
「心の中の英雄がいつまでもすねたままです」
 
 
人は心の中に自分の英雄をしまい込んだままで、それを揺り起こすこともなく暮らしていって、その英雄がいつの日に消えてなくなるときにこの言葉が出てくる。
 
「私には才能がなかったんだ」と。
 
 子供の頃に色んな職業を夢見て、色んなものになりたいと願うことは間違いじゃない。何になりたいかは大事じゃなくてどうなりたいのかを決めるということに渇望していたあの時代。
 
「人は心の中に英雄を育てていた」
 
 でも、現実が来る。もっとすごい人が来る。何かを叶えるためには努力をしなければいけない。自分は自分でその英雄を育てることを辞めてしまう。
 
だから俺は常にこう思うんだ。
 
「一人一人の中にはなりたかった英雄が住んでいる。彼は我々が思い描いた未来で活躍している人だった。でもそれを育てるまでにはいかないままで、彼はまだ子供のまま心の中で生活している」
 
「育てるのにまだ間に合うだろうか?」
 
 その感情を拾上げた瞬間に世界は変わるのだろう。今は趣味、今は好きな物。やがてそれが自分の本線に変わることを願って、いつまでも自分の中の英雄に語り掛けるのだ。
 
「あんた、こんなのが好きなんじゃないの?」
 
英雄が笑えば俺も笑うし、あんたも笑う。世間に笑われても、他人に笑われてもかまわない。
 
それが自分の英雄を育てるということなのだから。
 
 
 
 
                    写真提供 友人のゆいさん

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