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目標の呪縛

以前住んでいたまちで教育委員をしていたことがある。

教育委員は、教育委員会の構成員。首長から独立した教育行政を指揮監督する。レイマンコントロール(住民による意思決定)の役割を担う。任用は、地方議会の場で決まる。

と、文科省の文書を引用すると、どうも難しくなる。要は、まちの学校運営と教育行政をよく確認し、住民として意見を述べる係である。

委員の属性は様々だが、私は、まちの南部の小学校(特別支援学級)に通う児童の母親で、保健福祉に従事しているという立場で選ばれたようだった。

年1・2回の学校視察は、教育委員の大切な仕事の一つだ。
授業や学校設備をみせてもらい、教育目標や学校運営の実際、抱える課題等について説明を受け、意見交換する。
学校側はにこやかだが、緊張しているようだった。
人事や予算に関する権限を少なからず持つ教育長や委員会事務局の職員がいるからだろう。

教育委員の方も、やりにくさはあった。一保護者であるより、気をつかう。パワハラになるようなことや、ただでさえ忙しい教員や管理職に過重な負担を強いることは、したくないからだ。

だが、それでもなんとか伝えなければ、と思うことはあった。
それは、学校運営の目標や教育目標があまりにも悲しいときだ。

「鉛筆を正しく持つ」「姿勢を正しくして、授業を受ける」
どちらもそうできるなら、素晴らしい。
生徒は、身体の負担が軽くなり、所作の美しさで褒められる。集中しやすくなるといったメリットもあるだろう。
しかし、それはあくまでも「そうできるなら、望ましい」ことだと思う。
したくても、そうできない子への配慮がない。

平成16年に発達障害者支援法ができ、社会的障壁の除去が求められて久しい。にも関わらず、特性や支援策の理解が難しいこともあり、障壁はまだ多数存在する。

学習障害、発達性協調運動障害がある場合、鉛筆を正しく持つ、姿勢を正しくして授業を受けるのが難しい子どもがいる。あるいは、短時間ならできても、持続を求められると、授業が頭に入らない、次の授業が辛くなる、宿題ができなくなるといった事が生ずる子どもがいる。

目標として教室に掲示されると、できる子の自己肯定感は上がり、できない子の自己肯定感は下がる。
できないことをばかにしたり、咎める気持ちが出てくる。

本来は、子どもの勉強の効率を高め、自信をつけることを目指していた筈なのに。何のための目標かが浸透していないと、それは逆の機能を持ち始める。

自信をつけたその先に、鉛筆が正しく持てるようになればいいし、極端な話、鉛筆を正しく持てなくても人に迷惑をかけるわけではない。

「不登校を減らす」という目標も、気持ちが沈んだ。まるで、いじめと同じ扱いに感じたからだ。不登校は悪ではない。いじめと違って犯罪でもない。文科省は「不登校は問題行動ではない」と書かれた通知を出している。

不登校になるような事態を防ぎたい、子どもを苦しめたくない、という気持ちはよくわかる。だが、不登校を減らすと目標に掲げると、「不登校は問題だから減らす策を講じなければ」と考える人が出てくる。
目標が子どもや家族、教員を苦しめる。

目標を考えた人に悪意がないのもわかる。彼らは、愛があっても学んでいない若しくは知らない人なのだ。
発達障害の人は「僕らを一番苦しめるのは、熱心な無理解者だ」と言う。
アップデートしない愛は、対象により凶器に変わる。

しかし、この場合でも「学んでください」と言うのは、簡単で乱暴。心に届き、受け取ってもらえる方法を考える。

学校の取組みを讃えたり、労うことにたっぷり時間を使い、気づいて欲しいことを最後に少しだけ話す。まるで、古畑任三郎のように。

気づいて欲しいことは、伝えるのを一つにしぼる。
事例をあげて、分かりやすく伝える。
自分の失敗ということにして、しないで欲しいことを暗に伝える。
お金や手間をかけずにできることを提案する。
アドバイスをくれる専門家につなぐ。
考えつく方法を、声のトーンやテンポ、表情も調整して話した。

要求の多い厄介な人と思われたら、何を言っても届かなくなる。そして、無理に要求を通すようなことをして、自分を嫌いたくない。

星野源さんの『GAG』という曲の歌詞を頭の中でリピートさせる。
「ギャグの隙間に 本当のことを 祈るみたいに隠して」

祈るように会話に本音を散りばめる。明るく、穏やかに、労いながら。

というわけで、教育委員研修の後の懇親会で多少ハメを外しても大目にみて欲しいのだ。

女性委員3人でキャンディーズを歌って、蘭ちゃんを奪い合ったり、教育長とお揃いでウサギの耳付きのカチューシャをつけて写真を撮ったりしても。

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