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開高健のスーパーマーケット

 開高健の『開口閉口』に「買ってくるぞと勇ましく」というスーパーマーケットについてのエッセイがあります。スーパーについては、ぼくもこんな文章を書いたことがあります。

 「買ってくるぞと勇ましく」では、自分が45歳だと書いてあります。開高健記念会による略年譜によれば、すなわち1975年に書かれたということになります。仕事場をつくり、自炊を始めたことをきっかけにスーパー通いが始まったとのこと。略年譜の1974年のところに「12月 茅ヶ崎市東海岸南のこの地に書斎をかまえる」とありました。これですね。

 食品スーパーは、あらかじめ買うことを決めていたモノを買う場だけではなく、お店に入る前には買おうと思っていなかったモノまで買ってしまう場でもあります。自炊の初心者である開高健(そんな自分のことを「真性というよりは仮性」と言ってます)は、非計画購買を促すスーパーの陳列技術にやられてしまいます。すき焼きの材料だけを買うつもりが、こんなことになってしまいます。

わが『スーパーたまや』では入り口が野菜や果物からはじまり、ときにはそのあたりにハイビスカスやバラの鉢植えが並べてあって、こないだはハイビスカスが四五〇エンだったものだから、安イとおもったはずみにオデン種だけを買いにきたつもりなのについ手がのびてしまったが、そのあと、乳製品だ、缶詰類だ、調味料だ、お菓子だ、トイレットペーパーだと山積みの棚の列または列である。そこをしずごごろなく歩いていくうちに肉とネギとシラタキと豆腐だけ買うつもりだったのが、ついつい視線の止まるままに手がのびて、甘塩ザケの切り身、ラッキョの瓶詰、フリカケ、蜜豆の缶詰、とってかえしてホーレン草一束、二列前進してソバのだし汁の瓶詰め・・・・・・若い女のような陽炎のようなこころにも似た、捉えようのない買物となる。合計すると、ドヒャーッとなる。まとめて買い物袋に入れてみると、スキヤキの材料の余分のごたごたのなかにかくれて見えなくなってしまう。まるで、細部に念を入れるあまりに主題が稀薄になった小説みたいである(新潮文庫版、 pp. 346-347)。

ぼくは小説は書きませんが、「細部に念を入れるあまりに主題が稀薄になった」文章を書くことがあるので、このメタファーには微苦笑してしまいます。

 非計画購買の罠に陥らないように、開高健は余分なお金を持たないようにしたり、「車輪が四つついたショッピング・カー」ではなく、網でできた買い物袋を持つようにしたとのこと。

 そうなんだ、と思ったのは、1970年代中盤ではレジ袋がまだ一般的ではなかった、ということです。たしかにぼくも子どもの頃の記憶でも、母親はカゴ持ったりカートを引いて、スーパーに行っていました。

 2020年は、コロナ元年でもありましたが、一方でレジ袋有料化元年でもありました。2021年になっても、開高健のようにスーパーで非計画購買をしてしまう人は、ぼくも含めて、いまだたくさんいます。スーパーの仕組みは半世紀経っても変わらないのです。しかし、買ったモノの運ぶための入れ物は先祖返りしました。「エコバック」という新たな名前が与えられましたが。




  

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