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とける/とかす

 珈琲を仕事として淹れるようになって、数ヶ月が経った。いまではひとりで店に立つことも多い。

 並べられた数種類の豆。味わいのいくつかを、説明してはひとつ、選んでもらう。いくら言葉で表しても、そのとき共有できる部分はすくない。ある程度の指標や記号は、同じ世界にいるひとにはよく伝わるものだろう。しかし、口もとも鼻の形も知らないはじめて会った目の前のひとに、のぞむものを渡せるだろうか。
 少しの温度の差、抽出の方法で簡単に味わいは変化してしまうようだった。カウンターを隔てたこちら側で、日々格闘している。

 はたらきはじめてから、多くのひとと接しては、数時間で別れを繰り返している。お揃いの指輪や、よく似た目元、急な階段を降りるときの仕草にある生活。店員は、あちら側にはいけない。越えて、珈琲を置いてくることはあっても、彼らの会話には交われない。自分のもとを離れた味わいは、わたしの知らない話題の一部になって、溶かされていく。
 わたしは、ななめ上あたりからすべてをみている。どこにでもいて、どこにもいないように、いる。よばれたらかけつける。


 ある土曜、退勤したそのあしでワタリウム美術館へと向かった。

 加藤泉のプラモデルシリーズ。絵画・木彫を主とする作家の、2020年からの新作である。
 創作する上で、新しい素材としての「プラモデル」。その動きと木彫の人物たちが向き合い、溶け合う様が印象的だった。馬の隣に身を置いて、距離をはかるような作品。
 出会い、真似し、試みるところから次第に遊びへ変化する。次のフロアーでは、四つ足の人物のような木彫にプラモデルが「寄生」している。よくみると寄生したものそれぞれに番号が振られており、指定されたところへ作者が設置させられているようでもあった。
 最後のフロアーでは、石で作られた作品のプラモデル化が行われる。これまでの一連の「出会い」の終着点かと推測する。素材までもを新しい何かに委ねてみる、それでも石は、石らしくある。
 常に相手を挑戦するよう見つめつつも、心地よい形で手をとってみる姿勢。しかし、全ては解体できる状態にある。わざと色を変え目立つように接着されたつなぎ目。ナンバリング。それらはプラモデルの特性でもあるだろう。組み立て終わったそのときだけが完成形なのである。それらは別々にいることもできるし、また交流することもできる。


 開店前、店内を見渡しその日のことを考える。ふれそうでふれない位置に漂い続ける時間を。おそらくこれからも、誰かの隣にいるふりをし続けるのだろう。これまでもそうしてきたように。
 委ねるのはまだ難しい。先にあるものが実質、わたしであったとしても。すぐ元に戻せるとしても。場のすべてを包み込んでいたい。なるべく自然に。ほとんどわたしのまま空気にとけて、求められたら答えたい。よばれたらかけつける。

 それでも、遊びたい、とおもえるようになった。はたらく中で得た、ひとつの成長かもしれなかった。

 味わいを確かめるための動作。わたしは、客がのむ珈琲のほんのすこしを、うつしかえ、摂取する。何度もなんども、身体にとかす。たわむれはそれぐらい。

 いまはまだカウンターのこちら側で、慌てながら立ち尽くしている。


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