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20230604 言葉はいらない ~祭とことば

 博多祇園山笠の山のぼせになったのをきっかけに櫛田神社で行われる神事を見学することが増えました。そこで毎回宮司さんの祝詞を聞くことになって、最初は「祝詞の意味が分かるようになればいいのになあ。」と思っておりました。
 んがしかし私は典型的な「数学ができず高校時代に文転し暗記が必要な古文漢文の勉強もおろそかだからノー勉で済む現代文だけで勝負をかける」人間だったので、古文の知識が全然なく聞いていてもほとんどわかりませんでした。
 まあでも、「門前の小僧習わぬ経を読む」というのも事実で、何回も聞いていると少しは理解もできてきて、かつ櫛田神社の宮司さんはおそらく基本的にはわかりやすい言葉で語るのを好まれているのか祝詞の中にも現代語的な表現が含まれることが多く、それで結構何を話されているのか理解ができるようになってきた気がしていました。
 そんな感じで祝詞の内容がちょっとなりと理解できるようになると「なんだかありがたみが減る」気がしてきてもいました。それまで祝詞というのは、すぐれた魔術師だけが唱えられる全く意味不明の「呪文」だったのが、その内容を知ることができると、だれもが発することができる「祈りの言葉」になってしまった感じでしょうか。呪文だと敵を倒せますが、祈りの言葉だとかき消されてしまうような感じかなとも。
 そう考えてみると、祭を準備したり執り行ったりする際のさまざまなしきたり、ルール、決まり事などが驚くほど「言葉として残っていない」ことの理由が少しわかったような気がします。なんというか、祭の神秘性、高揚、臨場感などは「言葉にしてしまう」のがもったいないような気がして、それで毎年言葉にして残っていれば再現が容易なことを体得して伝承するために、あえて「言葉に残さないと全く伝わらないこと」以外は言葉に残さないのかもしれないなあと思いました。
 それと少し似たようなことが柳田国男の『日本の祭』の中に見つけたので最後引用しておきます。

p.231 言語を唯一の表現様式として、社会行動を会得しようとする現代人にとっては、実は日本の祭はやや静かすぎる。外の神々を拝むおりには、縷々と心の願いを陳述し、時としては堂々たる願い文をさえ納めようとする人たちが、自分の祭となるとただ目前と式の庭に参列して、千年以前の古文辞をつらねた、少しも理解のできない祭の詞を謹聴している。そうしてただ数滴の神酒をいただいて欣んで退出し、まず祭はすんだという楽しげなる顔をしているのである。

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