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死の美しさと腐敗臭について

「しにたい気持ちが消えるまで」

活字中毒の私が2022年に読んだ本の中で一番グッときた本だ。
noteでもその時の気持ちを書いた。



死にたい気持ち。


死へ導かれるような気持ち、死を渇望するような希死念慮きしねんりょ


死にたい気持ちとは、いったいなんだろうか。


一方で別の死にたい気持ちもある。2022年に読んだnoteで一番グッときた記事。

ガン患者になってわかったことだが、安楽死という選択肢とあると生きやすくなる。



生きやすさを求めることと、安楽死を求める気持ち。
がんサバイバーの一人として、私はこの気持ちに同意を表明したい。



私は、中学校の七夕の短冊に
「死ぬとき痛くありませんように」と書いて笹に結んだ(どんな中学生だ)。

私が死を恐れる意味は、死に伴う痛みを恐れるということとほぼ同じ意味だ。哲学的な死、例えば自分が忘れ去られるとか、生きていた意味がなかったとか、そういうこととは全く関係ない、現実的な「死」に関することを、中学生の私も恐れていたし、大人になった私も恐れている。死の直前に訪れるだろう苦しみを想像して、私は夜中に息ができなくなる。

死ぬということは、一体どういうことなのだろうか。
自分の存在が消え去るとか、自分を否定されるということと、死という事実が、が私の中ではどうしても一致しない。

死ぬということは、哲学的な意味ではなくて
わたしにとっては、もっと生々しい事実だ。

ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」の中で、高僧ゾシマは、主人公の敬虔な修道者であるアリョーシャの願いむなしく、死後一日も経たずに強烈な腐敗臭を発し始め、その事実はアショーリャーの人生観に決定的な影響を与える。

死とはいったい何なのか。
死にたい気持ちとはいったい何なのだろうか。
誰かに受け入れられるとか、否定されるとか、そういう自分の中で想像する死と、強烈な腐敗臭を放つ客観的な死。

想像の中の死は、死ではなく生だ。
メメント モリ。
人は、死を想う時、生を想っている。


私の考える死は、生と対極にある、腐敗臭を伴う死。

死にたい気持ち。
腐敗臭。



死はそんなに美しくないと私は思うけれど、
その美しさに魅入られる人たちもいる。


死とはいったい何なのか。
死にたい気持ちとはいったい何なのだろうか。



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