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ありがとうKSTC 〜振り返りの4年間〜

今回の部員日記は、経済学部4年 松川雄大が担当いたします。


最後の部員日記を書くにあたり、過去3年の先輩方がどんな部員日記を書いていたのか、さかのぼって読んでいました。小学生ごろから振り返っている人やこの部活に対する想い・感謝の言葉を述べている人など様々で、どんな部員日記を書こうか迷いました。が、私はコートや部員との写真を中心にこの4年間を振り返ろうと思います。

そこまで読めない方は、『●体育会に所属することの意味』だけでも読んでいただければ幸いです。

では。






●1年生

コロナ禍スタートでした。入部したもののコートでの活動が認められず、オンラインでミーティングをしたり、Zoomをつないでトレーニングをしていました。色々な環境が大きく変わり、不安が大きい中でも、高校の友人のみならず大学の先輩がすぐ出来たことは、精神的に大きな支えだった記憶があります。

弊部SNSで発信するために撮影・編集した動画(2020/04/07)

また小学1年生から習っているピアノの演奏会と練習が重なってしまい、大学1年ながら見たこともない理由で練習を欠席することもありました。今振り返って改めて、当時の先輩方には感謝しております。

当時の欠席連絡(2020/07/16)

そのあと、大学生活初めての成績発表が行われました。歴代体育会ソフトテニス部で最も高いGPA平均なのではないでしょうか。ここから下降の一途をたどっていくことになるのですが。

成績発表時の同期Lineグループでの会話(2020/09/04)

なんか偉い。今じゃ考えられません(考えられません)。

同期Lineグループでの会話(2020/09/05)

夏には本格的に練習が再開し、1年生の人数が3人という、当時では明らかに少数の学年として、1年生仕事を頑張っていました。

クーラーボックスを洗う様子(2020/09/06)

2020年9月7日、なかなか練習スケジュールや話すタイミングが合わない中で、初めて同期会を開催しました。先輩に言われてLineグループでは話していたものの、同期会ではそれとは違った雰囲気を感じ、新鮮だった思い出があります。たまたま偶然この部活に入部して知り合った6人(当時は5人)ですが、やはり同期の存在は部活を続けていくうえでも楽しむうえでも、かけがえのない存在だったなと、振り返ってみると思います。

全く関係のない2人も混ざっていますが、これこそ同期のコミュ力の象徴です(2020.09.07)

そして2020年11月1日、日吉開催での秋リーグをもって、(1:)4年生の先輩方が引退しました。中央・立教と慶應で三つ巴となり3位でした。志木高の先輩もおりテニスをよく見てくださる先輩もいらっしゃり、同期どうしの仲もよく、入りたての時の4年生が皆さまで良かったなとつくづく思っています。同時に、自分も3年後こうなりたいなと思った瞬間でもありました。

前列6人が4年生です。この虹のカラクリを知らず1年ほど感動してた人がいました。(2020/11/01)

4年生引退もつかの間で、秋早慶戦が控えていました。
このころ私は「Twitterでよく呟いているから」という適当な理由で「広報委員会」に所属していました。広報委員会では、部についての発信をしたり、ソフトテニス界を盛り上げようと、先輩方を中心にいろいろな活動をされていました。コロナ禍でインカレ中止が決まってからすぐ、「ソフメモ甲子園」なるものを体育会ソフトテニス部(以下KSTC)主催で開催し、SNS上で盛り上げを見せていたりしました。
秋早慶戦では「大規模なライブ配信をしよう」という先輩方の方針のもと、動画やポスターの作成に取り掛かっていました。この秋リーグから秋早慶戦にかけての広報活動が、今にいたるKSTCの広報のやり方や動画編集などの原点になっていたと感じます。テニス以外の部分でも、あらゆるスキルや情報・デザインの見え方など、多くのことを学べたのはあの時の先輩方のおかげであり、若干の半強制性の仕事であったことにも非常に感謝しています。

早慶戦のポスター、夜通し部室で編集作業をしていました。(2020/11/15)

2020年12月27日、少し遅めのクリスマスプレゼントとして、同期の1人から同期全員に、同期5人の写真が印刷されたTシャツをプレゼントされました。異常なほどの仲の良さですが、当時は大学生になったらこういうことするんだなと思っていました。誰から何を言われるか分からないので、写真は載せません。

年は変わり2021年3月末、初めての春合宿がありました。合宿とはいえコロナ禍ということで、例年と違い宿泊無しで行われました。それでも追い込み練習を中心に厳しい一週間だった記憶があります。4日目はアクティブレストをしました。賞〇を同期が全額パ〇〇コに突っ込んで4万9千円勝ったことと、部室で食べた鍋二郎の残飯を排水溝に詰まらせた出来事が、強く思い出に残っています。

合宿終わりの帽子投げ写真です。(2021/03/20)



●2年生

最初にハタチを迎えた同期の誕生日会です。同期との思い出の多さの数だけ、支えあっていたなと感じます。

(2021/04/02)

また後輩も入部してくれました。同じ志木高後輩の宇津木(右)、中学時代から知り合いでよくテニスをしたり遊んでいた仲だった岡田(同い年の学年1つ下)です。

まあいっかTwitterにも載ってたし(2021/03/25)

そして体育会生活2年目にして、同期が1人増えました。「こんなこともあるんだな」とびっくりしながらも、活動をともにする仲間が増えて嬉しい気持ちでした。

6人目の同期が入部してきたときの同期Line(2021/04/25)

この間に、コロナ禍で規制がかかってた大会なども徐々に緩和されはじめ、遠征などの機会も出始めました。なかでも櫻井さんがシングルスの大会で足を攣った状態で出場し続け、自力インカレを決めたところで救急車に運ばれたのは忘れたくても忘れられない出来事です。

縦割りという弊部のイベントも復活し始めました。そんな大げさに言うつもではないですが、下の学年をフォローしつつ上学年の先輩とも渡り合う、特殊な学年だった記憶があります。

帽子ぐらい取れ。(2021/07/21)

東京オリンピックも終わった9月ごろ、日吉に住んでいた当時4年生の浜田さんとご飯に行く機会が増えてきました。コロナが再び蔓延傾向にあるなかで、秋リーグが開催されるか否かという段階だったので、引退が早まることを考えたうえでの行動だったのかもしれません。後輩である自分(だけではない)をご飯に誘って、今までの代ミーティングの話であったり、チームマネジメントの話など、多くの試行錯誤の蓄積を語ってくださいました。深夜日付が変わっても、浜田さんの家の横に座り込み、道路を見ながら話をしました。自分の部に対する不安や疑問なども、そのときに聞き出して下さいました。その語り合いを経て感じたのは、立場や視座の違いによって互いに気づかない主張や正義があることを知ったり、人に何かを伝える時の順番による印象であったり、信用に値するモノコトの基準であったりなど、一言で言えば「自分の視野の狭さ」がはっきり認識できたということでした。
たかが2年生の自分に対しても、多くの時間をとってあれだけの蓄積を伝えてくださった浜田さんには、今でも感謝しています。
それと同時に、自分も引退する前には後輩たちに思ったことを伝えられる時間を作れればいいなと、心に決めた瞬間でもありました。

おそらく本人お気に入り、TikTok産・重加工済の浜田さん(2021/09/07)

その後、コロナの蔓延により秋リーグの中止が決定し、それをもって(2:)4年生の引退が決まりました。そんな経緯で開催された「俺たちを見ろ!杯」。最後の最後で大会が失われた4年生の悔しさは到底計り知れないものですが、そんな4年生方に少しでも恩を返せたかなと思います。同期マネージャーがポスターの編集をしていました。その腕前で右に出るものはいません。

同期の作成したポスター、集合写真の旗も同期作成によるもの(2021/09/29)
徹夜で作成した、インタビュー用背景(2021/10/23)
「俺たちを見ろ!杯」結果。レジェンドのレは”L”ですが。(2021/10/23)
前列7人が4年生です。あと2人いたんですけど。(2021/10/23)

代が替わって1つ上の先輩方がチームをまとめることになりました。明らかに部員が減ったことを覚えています。少なくなりすぎて、違和感が大きかったです。
このころはダブル後衛に取り組んだり、様々な部員とペアを組んだり、ある部員がTikTokerをやっていることが判明するなど、色の濃かった年でした。また先輩方とも休日に出かけることが多くなり私生活面でも充実してました。先輩カップルと横浜に行ったり、後輩カップルと埼玉まで行ったり、面白いことたくさんしてました。もう両方解消してしまっていますが。

年が変わった1月8日、部員3人で関西・四国へ車中泊の旅をしました。京急の言葉を借りれば、行き当たりばったりの”逝っとけ旅行”でしたが、ステーションワゴン型の車内に男子大学生3人が気合いで雑魚寝するスタイルで、学生ならではの体験ができた4日間でした。

誰かの何かのアイコンにもなってる写真(2022/01/07)

2月にシーズンインしてから11日目、春合宿が始まりました。内容は割愛しますが、いつ見ても最後の帽子投げの瞬間は気持ちがいいです。ちなみに私がしっかりと参加した合宿は、これが最後となってしまいました。

インスタへの投稿。そういえば合宿の文言を使うなとOBから指示されてた気も(2022/3/11)

あっというまに3月末を迎え、(2:)4年生の先輩方は卒業していきました。大学生生活は折り返し地点、体育会での競技人生はもう半分以上過ぎたことを実感します。

卒業式の日にコートにて。にぎやかな代でした。(2022/03/23)



●3年生

3年生になりました。新入部員が入ってくると同時に、上の学年が2代もいなくなったかと思うと、いつの間に自分たちの年代がそこまで上がってしまったのかと、不思議な気持ちでした。テニスへの注力度・部活動全体(広報勧誘など)への責任感などが大きくなる中、春リーグはコロナ罹患によりチーム全体が棄権となってしまいました。入替戦にも敗れ3部に降格し、個人的には漠然と上手になることだけを道標に、沈滞した時間が続いた期間でした。

慶應義塾大学棄権のツイート(2022/05/07)

そして広報活動の一環として行っていた「TikTokクリエイターアカデミー」は、全課程を修了して1期生を終えました。各クリエイター間で企画をしたり、動画投稿週間を設定したり、オンラインで情報共有したり、個人的にはとても良い経験でした。

届いた日に撮影、今はどこにあるのかすら怪しい。(2022/06/10)

2022年6月14日、同期が三田から一人で財布もなくタクシーに乗り、深夜に部室で下車するという事件がありました。次の日は練習でした。

2022年6月20日、春早慶戦があり出場しました。前からYouTubeなどを通して大会の存在を知っていた身から、どうしても出たかった大会に出られ、喜びと緊張で、のびのびはプレーできませんでした。しかし、確実にいい経験になりました。

2022年6月24日、強風だったこの日、大きな枝が折れて落下してくるインシデントがありました。真下は石段(休憩スペース)でしたが、全員がボレーボレーをしていたので何ともありませんでした。

なんで撮影したかすら忘れた(2022/06/24)

またこの頃は、1つ上の先輩である中牟田さんが主宰の「川会」の最盛期でもありました。2つの川の合流点で夜風にあたりながら、たわいもない会話をする会でしたが、とても大学生らしく、とても楽しかった記憶があります。彼(先輩)の口癖は、「川会は贔屓で成り立っている」でした。

折り畳み椅子と菓子・飲料を用意して、明け方まで語り合っていた(2022/06/27)

このあたりの時期が、時間的に最も同期とのやり取りが多かった期間だったと思います。夏以降は就活や連続する大会などで時間が取れず、同期全員と関わる機会は減っていきました。白子町での6人の集合写真です。

海の近くで撮った写真。同期2人の誕生日でした。(2022/07/11)

9月11日、インカレ初戦敗退から1週間、部内でもめごとがありました。ミーティングをして、普段なかなか意見を表明できない部員からも言葉を聞いて、互いにどれだけ相手のことを理解しきれていないか、無知なのかを捉えるいい機会でした。1年前の浜田さんとの会話が現実になったともいえるような、これ以上にない身の染み方でした。

秋リーグ前、なんとかチームは団結し、3部優勝・入替戦勝利によって2部優勝し、いよいよ自らの代へ替わっていきました。

入替戦で勝利し、4年生は引退しました。(2022/10/15)

秋リーグですが、家族のコロナ感染による自宅待機期間の都合によって、(春リーグの反省もあり)大事を取ってチームに帯同することは出来ませんでした。しかしどうしてもチームメイトが優勝を懸けて戦う姿を見たかった私は、一人車で会場に向かい、慶應ベンチとは逆側のサイドから、手も叩かず離れた位置から黙って観戦していました。櫻井さんがシングルスで優勝を決めて日吉に戻ってきた際、「松川引退しなかったよ」と言ってくださいましたが、あの時「しっかり見てました」とは言えず、ただ感謝の言葉を述べてました。もう時効だと思っています。

離れた位置からでも慶應の応援だけはしっかり聞こえました(2022/10/02)

代替わり後、いろいろと新しいことに取り組もうと思っていました。
広報でいえば、部員紹介や早慶戦の宣伝動画・ポスター、応援指導部との連携、SNSリンクの一体化、Instagramの活性化などです。チームマネジメントについても、同期(幹部)での意見や方向性のすり合わせを行ったり、伝え方や態度の見せ方について話したり、技術向上面で厳しい言葉もたくさんもらいました。特に自分は「シーズンオフまで就活をやらない」と決め、チームが始動して間もないこの期間は、テニス一心で活動したつもりです。(ただし他者評価と一致しないのも常です。そこは素直に認めます。)

これを大量に刷って熊谷ドームで配った記憶があります。(2022/11/26)
もちろん同期マネージャー作成です。日吉商店街の2店舗に掲載しました。(2022/12/04)

年が明けて2023年。最後の年が始まります。
就活とテニスに取り組む毎日、テスト対策やES精査・企業研究など、やることが尽きないほど多くありました。またこの時、テニスコートの芝が全面張替工事によって新しくなっていました。そんな出来立てのコートでテニスをしていた矢先、事故が起きました。

足首が変に腫れてふくらんだ左足と、正常な右足との比較(2023/02/06)

関節捻挫でした。2~4週間の療養期間を見積もられ、2月中の練習は諦めざるを得ませんでした。

2月26日から春合宿が始まりました。が、足の怪我を診てくださっていた医師のGOは出ませんでした。翌27日にGOは出ました。
2月28日、練習に復帰して2時間ほど経った後衛の一本打ち練で、再度同じ足を捻って転倒しました。自然に涙が出るほどの激痛のなか、後輩の背中を借りて部室までおんぶされる最上級生。情けないにもほどがありました。そこから1ヵ月強、歩くことすらギリギリの生活が始まりました。合宿恒例の帽子投げ写真も、病院の検査と重なり映ることはありませんでした。

以後練習では、動画をとるだけ・気になった点をアドバイスするだけ・球出し球拾い専門要員・上半身の限られたトレーニング等、今は退部してしまった同じ境遇の2年生後輩とともに、その時できることを探して、モチベーションを保っていました。もちろん平和カップに行くこともなく、3月の白子合宿でもボールは一度も打ちませんでした。

あっというまに3月は過ぎて、1番近しい先輩である(3:)4年生の先輩方が卒業しました。あいにくの雨でしたが、全員と写真を撮るほどに各先輩方思い出が深く、自分以外の卒業式では最も記憶に残っています。

室内での撮影となった、4年生との集合写真(2023/3/23)

そしてこの1週間後、高校生研修会を経て、最初で最後の対面新歓に臨むことになります。



●4年生

4年生についての項目ですが、内容の性質が異なる3段落に分けて執筆したいと思います。

●春リーグとインカレ

はじめての対面新歓では、(最終的な入部・現在まで在籍継続は問わず)比較的多くの大学生がコートや部室を訪れてくれました。比較的というのは、悲観的な予想よりも多かったという意味です。

我が部のチラシ接触勧誘戦略部隊(2023/04/04)
新1年生と一緒に履修を組む、弊部部員(2023/04/05)

この結果、男子部には4月末時点で、選手3人・マネージャー2人の計5人の新入部員が入り、最後の新チームとして大会へ走っていくことになりました。
ちなみに1年生マネージャーからは、あまりにテニスをしないので「4年のマネージャー」だと思われていたそうです。

新生男子部18人。右足は治っておらず六大学断念。(2023/04/23)

このチームで春リーグに臨んだのですが、2部全敗で6位・入替戦敗退と厳しい現実を突きつけられました。

入替戦直後、OBさんとチームマネジメントについて激論を交わした日がありました。夜の練習後、ご飯を食べ部室に戻り、夜通しずっと部活動運営について話し合い、朝日が出てからようやく帰路につきました。たかが学生の部活動ではありますが、そこに等身大で向き合ってくださるOBの方々には頭も上がりません。この写真のOBさんのみならず、深夜遅くまで語り合ってくださった先輩方は何人もいらっしゃいます。おそらくそんな日は来ませんが、もし自分が将来必要とされれば同じ恩は後輩に返そうと思っているくらいです。

撮影時間は朝4:16(2023/06/22)

それから約2週間後、個人ではインカレ決めの校内リーグで勝てず、インカレに出られないことも決まりました。
応援として臨んだインカレ、西日本工業大学を相手に初戦敗退。敗戦後、監督コーチ陣へのあいさつが終わった後、同期3人でその場に残っていましたが、最初の言葉を発するまで何分かかったか覚えていません。とにかく最上級生として情けなく、またやってきたことを見直さざるを得ない状況に、悔しさでいっぱいでした。


●秋リーグまでの道のり

インカレで敗戦したその日、チーム内でミーティングを行いました。
覚えているようで細かいところまで覚えていないのが正直な感想ですが、週報についてやTRSの実施、上級生や体制に対する不満・改善点などを洗い出し、秋リーグに対してどのような方向性・施策をもって進むかの原点の部分を話し合いました。
振り返ると、後輩に救われてばっかりだし良い後輩に恵まれたと思います。おこがましくも、このできごとで「浜田さん」との思い出をおもいだし、部員全員と1対1でご飯に行こうと決めたのでした。
インカレは部員を最後まで応援すると決め、北川の対田中1ゲーム奪取を目に焼き付けて帰京しました。緑のビデオカメラは今どこにあるんだろうね。

1年生を75キロ離れた駅に送っている最中に撮影された、地元カップ3位の賞状(2023/09/03)

後輩からの指摘や誘いも相まって、最後の1か月はほぼ毎日コートに通っていました。二度のコーチ招聘でも密度の濃い練習ができ、気付けばあっという間に秋リーグはやってきました。

中学の同輩である大和憲史と対戦することはありませんでしたが、チームとしては21勝4敗・リーグ全勝で3部優勝を達成し、4期連続の入替戦に臨むことになります。

3部全勝賞とったのまじ?(2023/10/29)


●入替戦勝利と引退

今は引退した直後の2023年11月6日(月)です。日曜夜の飲み会後、カラオケをしラーメンを食べ寝て起きて11時、昨日のことを思い出しながら部員日記を書いています。

2023年11月5日(日)、関東2·3部リーグ入替戦において、城西大学と五番勝負までもつれ込んだ熱戦の末、③≡2で勝利し2部復帰を決め、このチームから現役を引退しました。入替戦前最後の部員日記を思わぬタイミングで担当し、東横線の魅力について長々書いた記事の最後に、ともに切磋琢磨してきた男子部の部員全員にメッセージを書いたのでした。

引退したくなかったです。本気で周りと切磋琢磨できた4年間、特に最後の1年はあっという間でした。後悔せず全てを出し切ってやってきたはずなのに、振り返ると思い出すのは“もっとやりたい”という想いです。
入替戦、村田のエールの声が響く中、最後の若き血だと思うと、誰よりも大きく声を出して歌っていました。セットカウント1≡2で迎えた武藤村田戦、後が無い中で⑤-3で勝利し、もう一度『若き血』を歌うことになったとき、もう一度その曲を歌える喜びと、これで本当に最後だという想いで、ほとんど歌えませんでした。

五番勝負のラストポイント、山根のファーストサーブから住吉が逆クロスにポーチボレーを仕掛け、ノータッチで入替戦勝利を飾りました。北川前主将が嬉しさのあまり、帽子を地面に叩きつけ黄色メガホンを蹴っていたそうですが、僕の目は涙でいっぱいで何も見えなかったです。もう一人の同期である晴貴くんは鼻血を出してるところを激写されていました。持ってるね。

入替戦で勝利が決まった直後の様子(2023/11/05)

ここからは投稿日執筆です。
この日の夜の飲み会では、複数人が体調不良で来られなかったのを覚えています。今振り返れば、全員がギリギリ・最大限を出し切る状態で、特にメンバーは大きなプレッシャーを背負いながらあの日を戦い、潜り抜けたんだと思います。本当にありがとうございました。あのチームが本当に大好きでした。

最後の集合写真(2023/11/05)

ここまで、1年生の入部から4年生の引退までにかけて、体育会生活での出来事をそれとなく書き起こしてきました。年代によってカラーがだいぶ変わってるなと思いながらも、たしかに自分が通ってきた道なのが面白いなと感じています。



●体育会に所属することの意味

最後に、体育会に所属することの意義について書いて、部員日記を終わりたいと思います。

結論、「たくさん成長できる」です。

もう少し別角度から書けば、リアクションのしやすいキャッチコピーだったかもしれませんが、それだとシンプルさに欠けるので上記のように書きました。5つに細分化して書こうと思います。

第一に、体育会ではいろいろな背景を持った人と関われます。それは、チーム内であろうと、隣を使う女子部・塾高・もっといえば志木高であってもそうです。自分がいざその人たちとテニスをしたり、指示を出す立場になった時に、2年生の時に浜田さんから教わったような考え方で接していなければどうだったか。おそらく相手の想いや要求の本質をより理解できないままチームについて考えたり、より指示を飛ばせず相手の理解を得られない人間になっていたのではないかと思います。

第二に、体育会では言い逃れのできない悔しい経験ができます。自分と近い年齢・非ジュニアなどの近しいテニス事情などの環境において、練習の成果を真っ向から否定されるような、そんな経験を何度も味わいました。短期的には辛い出来事で、目を背けたい現実。でもそれに向き合って(事実を公平に比較して課題を克服する)努力しなければ、その現実から脱せられないのも現実でした。この心持ちは、競技性という体系をもった組織だからこそ味わえる経験で、かつ早めに味わっておくべきではないかと思います。簡単に言えば将来社会に出た時の予行練習です。なんなら人間として成長しながら生きるための練習だとも思っています。

第三に、体育会では目標を自由に(いくらでも高く)設定できます。体育会では「〇〇をやれ」とは特に言われず強制されません。自分がやりたいからやるし、目標も自分で決められる範囲で決めるものだと思っています。だからこそ、目標が高い人はどこまでも高いし、それを実現できた時の喜びは表現できないほど大きなものだと思います。実際、私ではなく後輩の実例として、県大会に出られなかったレベルのプレイヤーが、大学ではエースとして他大学の強豪高校出身者を倒す実績をあげていることなどです。その能力が実を結べば、自分が思う可能性以上の結果を作り上げることも可能であると感じました。

第四に、この体育会でテニス以外に学べた付加価値が大きかったことです。組織運営云々の話ではなく、広報活動におけるスキルなど、テニス以外に身についた能力です。写真動画の編集も何不自由なく行えるレベルまで身に付き、投稿時に気を付けようとデザイン基本書を読み込んでから基礎的な感性は得られることができました。これは広報に限らず、”目標に向かって取り組むうえで、必要と思った別分野の知識やスキルを独自で開拓する力”を、いかに自らの意思と試行でやりぬけるかという能力だと思っています。そのチャンスが、体育会に所属していたほうが多く巡り合えるのではないか、と感じています。

第五に、体育会では密度の濃い日常を過ごした仲間が得られます。同期はもちろん、お世話になった先輩やお世話になった後輩など。学問が学生の本分とは言いますが、部活動も間違いなく大学生活の日常の一部です。大学生ともなれば”直接将来必ず活かされる能力”ではないスポーツを頑張ることに対して、利害などを考えてその道から外れる人も多いと思います。それでも信念をもって、性格などの好き嫌いはあれど、部員と共通の目標へ琢磨する時間が、かけがえのない財産になることは間違いなかったです。

この5つをひっくるめて「たくさん成長できた」、だから体育会に所属する意味はあった、と言えます。

そしてこれは、プレイヤーでもマネージャーでも、アナリストでもトレーナーでも、あらゆる立場であっても「おなじ目標を持った組織に帰属する仲間」という目線では、同じ意味での”成長”は得られると思っています。

そんな新たな仲間が一人でも多く、この部活を選んで加わってくれたら嬉しいです。




長く拙い文章で、言葉選びや順序なども完璧でないとは思いますが、伝え残すことなく最後の部員日記を終えられた気がするので、満足です。


最後になりましたが、この4年間、慶應義塾体育会ソフトテニス部での活動を通じ、関わりを持ってくださったすべての皆さま、特に部を支えてくださったOBOGの方々、部を応援してくださるSNSフォロワーの方々、会場で話しかけてくださる指導者の皆さま。
今までありがとうございました。おかげさまで、非常に充実した部活動生活を送ることができ、また幕を閉じようとしています。

後輩たちは春リーグ2部優勝を目標に、現在活動しております。
たくさん支えてもらった後輩たちは、とても頼もしい存在です。自分たちの信念を貫きながら、限りある体育会生活を存分に楽しんでほしいと思います。

自らもそれを支えるOBになりつつ、平素よりお世話になっているすべての皆さまへ、これからも弊部への変わらぬ声援をよろしくお願いいたします。






最後までお読みいただきありがとうございました。


ありがとう。







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