見出し画像

お笑いの難しさ。


改めて考えて長々書くのはダサい感じもしますが、様々な面からまとめてみました。

菅田将暉さんの話

先日の「ダウンタウンなう」で、菅田将暉さん回の再放送があった。
それのなかで、「役者は一人の人間になりきる。一方お笑いは現実にはないことをやっていて、しかし現実から離れすぎると観客がついて来れなくなって面白くなくなる。その狭間のバランスを取っているから演じるより難しいと思う」というようなことをおっしゃっていた。
(記憶違いだったらごめんなさい)

そう言われれば確かにそうだと思った。
お笑いというのは現実から離れたことをして笑いを取るが、しかし現実から離れすぎると面白くなくなってくる。
その塩梅は非常に難しい。

でも野性爆弾くっきーさんて、めちゃくちゃ突拍子もないことをしているのに面白いんだよな。。。

予想からのズレ感

何が来るかの予想からのズレ具合で人は笑う。

よく言われるのが「緊張と緩和」。
「どうなるんだ、どうなるんだ」と『緊張』した場面から、予想と外れた方向に物事が動くと『緩和』になって笑いがおこる。

笑いを大きくするために、その前に聴衆を狙った「予想」に誘導することがある。
俗にそれを「フリ」という。

そういう意味で野性爆弾くっきーさんは、「とんでもないことをする」ということをみんな知っているから、「フリ」がすでに現実離れした高い位置にあるのかな。
「現実からの落差」はとんでもないが、「フリからの落差」だとそこまででもないから付いていくことができて面白いのかな。

でも古典落語は、オチが分かりきっていても面白い。
(古典落語の代表と言えば、アンミカさんのスパイの話。2020/05/20の「あちこちオードリー」参照)
古典落語に限らずとも、好きな芸人さんのネタとか、バラエティ番組の過去の傑作トークまとめとか、やはりオチを知っていても面白い。
つまり予想を外していない。
うーむ。

被せ/天丼

同じことを繰り返し面白くすること。
そのものはつまらないことでも、「何度も繰り返すこと」がおもしろ要素として乗っかってくることがある。
「何度も繰り返すこと」が日常からのズレ感になるのかな。

つかみ

最初に客を引きつけるためのネタ。
有名どころでは

オードリー「春日のここ空いてますよ」
南海キャンディーズ「セクシーすぎちゃってごめんなさい」

あとは麻生太郎氏が総理大臣当時に国連演説で「このマイク、日本製じゃないだろうな?」というジョークを言ったが、そのあとにきちんと「これはジョークですよ、笑っていいんですよ」という表情とポーズをした。

笑っていいんですよ、という合図というか、環境づくりというかも大事。

「スベる」とは

内容がつまらないこと。

でも、つまらない内容でも、面白くなることもある。

2020/04/25の#annkwでは、「ウケなかったあとに、ダメージを受けることまでがセットでスベる」ではないかという話になっていた。
たとえウケなかったとしても、言った当人がダメージを受けていない、あるいは受けていないがごとく、どんどん放り込むとそれはそれで面白いのか。
下手にやると流れを阻害するだけだとうっとうしくなってしまうけど。

2020/05/23のエンゲイグランドスラムはリモートだった。
ネタはもちろん一流芸人の方々のなので面白かった。
しかし、なにか「スベってる感」があった。
これは、お客さんからの笑い声が放送にあまりのらないこともあるが、お客さんからのダイレクトのリアクションが芸人に返されずノッてこなかったことも一因なのではないかと。
リアクションがないことは、芸人さんにとってダメージになる。
ネタが面白くても、スベってる感が出てしまう環境と、芸人さんが受けたダメージで面白くなく見えてしまう、興味深い状況だった。

一般につまらないとされることでも、「絶対に面白い内容が来るぞ」というフリから放てば、それがズレ感になって面白くなることもある。

あるいは一般に寒いとされるシンプルな親父ギャグでも、軽妙に放り込んでいくことで面白くする人もいる。
難しいな。

安易な笑い

いろいろ書いたけど、簡単に笑いを取ることはできなくはない。
ただそれは、下ネタとかディスりネタとか。
誰かを傷つけて、苦しんでいる様を笑っているような感じで、あまり良い印象のものではない。

でもかと言って、昨今「誰も傷つかない笑い」というのが持て囃されるが、「誰も傷つかない笑い」ってあるのか。
一般にボケと言われる人がボケて、それに「アホちゃうか」と突っ込むのが笑いの一要素の気がして、その「ボケに対してマウントを取れる感じ」が心のどこかにあって笑えるのじゃないかという気もしている。
「お笑いのプロレス」という言い方があるが、芸人さんがうまく受け身をとっていい具合に傷つくことで笑いになっているのではないか。
「誰も傷つかない笑い」ってあるのかな。
でも「ぺこぱ」さんのノリツッコマない漫才は確かに多様性の時代にあった大発明で、「誰も傷つかない」気がするがどうなんだろう。
松陰寺さんがうまく言い返せずモヤモヤしている様子が面白いから、他人を傷つけることはないものの松陰寺さんが背負っているような気もしないではない。

またさらに、下ネタも全部が悪いわけではないと最近感じる。
#annkwの 「死んでもやめんじゃねーぞ」のコーナーを聞くたびに思うが、工夫と技術を持って作られた下ネタは面白い。
さらに細かい話になるが、関東では2020/04/24放送の「オドぜひ」では

オドぜひでも下ネタを扱う際「その下ネタは品があるか?ないか?」というよくわからない議論をします。

というテロップが出た。
「死んでもやめんじゃねーぞ」のコーナーを聞き始めてから下ネタに対する見方が変わっていた私にとっては、結構響くテロップだった。

画像1


ひょんなことで起こる笑い

友人から聞いた話。
「イコライザー」という映画の拷問のシーン。
車に入れられた人を、排ガスを車内に誘導するなどの拷問が行ったあと、外付けスイッチで窓を開けて、「答える気になったか」と問い詰める。
(というシーンがあるそう。私は見ていない)

ある人、そのシーンで何故か笑ったとのこと。

曰く、「緊迫した状況なのに、いつもの調子でゆっくり開閉する窓が面白くなってしまった」とのこと。

緊張と緩和とは言うが、「パワーウィンドウ」がまさか緩和要素になるとは。

笑いのプロレス

先程も少し出たが、笑いのプロレスという言葉について。

最近ある友人がLINEでもTwitterでも執拗につっかかってきてイライラしている。
それが面白いと思っているのか知らないが、私がイライラしているだけで全然笑いにはなっていない。


笑いはプロレスだとよくいう。

上手く技を掛けられる人と、上手く受け身が取れる人が合わさって、初めて笑いになる。

技術がないのに技を掛けようとするのはただの暴力であり、受け身が取れない人に技を掛けるのは乱暴である。

学校でよくある、お笑い番組をかじっただけで技術は欠片もない陽キャが人をいじっているのは暴力だし、場合によってはいじめになる。

私が最近イライラしている人も同じで、技術もないくせに人を攻撃するのが面白いと思っているたちである。
それはマウントを取っているその人自身だけが気持ちいいということに気付かなければいけない。


笑いを取るには、自分が技を身につけるだけでなくて、相手がどこまで受け身が取れるかを気付けなくてはいけない。

という話をオードリーさんも2020/05/23のannkwでも話していた。
そういう「背中の皮の厚さ」をきちんと感じられるから、オドぜひの素人いじりも安心して面白く見られるんだなぁ。


でも相手の具合を見るというのは、そう簡単にできることではない。




特別付録:以前自分が書いた文章(一部改変)

ごちゃごちゃ書きましたが、最後に、私がちょうど2年前くらいに書いたものをお読みください。改めて読むと、自分でも面白いなと思った。

_____________________________

 「良い問いを見いだすことは,問いに答えることよりも難しい」
かの睡眠研究の巨匠、柳沢正史先生の座右の銘である。私もそれを銘記している。そしてある日、この言葉がお笑い番組を見ていた私の頭の中で以下の様に変貌を遂げた。

「良いボケをすることは、ボケにツッコムことよりも難しい。」

 それは「誰も気付かないことを見つけ出す」という意味で似ていると思ったからである。しかし、この2つには大きな違いがある。それは以下の状況を考えると分かる。
 よく芸人のボケに対し、テレビに向かって「それは〜だろ」とドヤ顔で突っ込むオッサン(とも限らない)がいる。しかし、周りの者からすると、誰にでも分かるボケに対し「自分だけが気付いた」が如く突っ込むオッサンは見っともなく映る。
 しかしこの状況こそ、先の「大きな違い」を見つけるヒントになる。
 「良いボケ」において大事なのは「誰にでもツッコめること」である。(注釈1)誰にでも理解できるからこそ、誰にでも伝わる笑いになる。一部特定の人にしか理解できないのであれば、それはいわゆる「内輪ネタ」の範疇を出ない。そして内輪ネタは一般にサムイ。
 一方、研究者における「良い問い」において重要なのは「誰も分からない」ことだろう。今まで誰も答えに辿りついていないからこそ、場合によっては誰も問題に気付いていないからこそ、大いに研究する価値があるということになる。
 しかしだからといって、「良いボケ」をすることの方が簡単というわけではあるまい。「良いボケ」には誰にでも伝わることが肝要である一方、誰にでも気付ける視点からのボケであればさして面白くない。起きている現象に対し、思いもよらぬものに比喩や結び付けを行い、しかもそれが分かりやすくてかつ的確であるからこそ面白い。(注釈2)
 研究のお題目は突飛であればあるほど面白いが(語弊しかないですね、御免なさい)、ボケにおいてはそうはいかない。独自の視点と一般常識との間で繊細なバランス、絶妙な塩梅を取ることが求められる。そういう意味では、こちらのほうが難しいと言えるかもしれない。(もっとも目指す場所が違う以上、優劣を付けることは愚劣である。)

結論
 研究者は役に立つお堅いことを考えていて、芸人はおちゃらけたことをしている様に見える。しかしその思考過程においては「誰も気付かないことを見つけ出す」という共通性が見られる。目的の違いから生まれてくるものは異なるとはいえ、その意味において、いずれの仕事も極めて頭脳的で高尚なものであると言える。

(注釈1)いわゆる「ツッコミボケ」は、ツッコミの体をしたボケであると考えボケの一種とします。
(注釈2)ダチョウ倶楽部さんに代表されるような、分かりきったことをやるからこその笑いもあるのが議論をさらに難しくするが、今回は省略。





この記事が参加している募集

熟成下書き

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?