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【ピリカ文庫】さそり座のあなた

 病院へ行くのは面倒だけど、病院そのものは好きだった。特に清潔に整えられた薬品の香りは、いつも私に病院という世界を意識させ、安心を与えた。街の喧騒から一歩距離を置いた人々が行き交い、皺ひとつないナース服を着た看護師さんが健康的な笑顔で私を受け入れる。潔癖な私には申し分ないほど、病院という空間は余計なものから私を守ってくれた。

 あの日は確かに晴れだった。朝の白い光が待合スペースの大きな窓から燦々と差し込み、さらに白い床に反射して眩しかったのをよく覚えているから。週に一度、午前の授業を休んで市立病院へ行くのが高3の私の習慣だった。授業をすっぽかすこと自体は週一どころの話じゃなかったのだけれど。

 平日の朝、基本的にご老人ばかりのその場所で制服姿の私は浮いていた。そして、彼女も私かそれ以上に浮いていたと思う。だから私たちは早くにお互いの存在に気づいた。近づいてきたのは彼女のほうだった。

「あなたはなにざ?」

 最初、私は自分が何を言われているのかわからなかった。頭に巻いたタオルの下から覗く大きな瞳がビー玉みたいで、私はしげしげと眺めながら首を傾げた。

「なにざ? あなたのせいざだよ」
 そこでようやく、「あなたは何座?」と脳内変換できる。
「ああ、星座ね。私はうお座」
「きょうはひとの話をよくききましょう」
「人の話を聞いたら、何かいいことがあるの?」
「ラッキーアイテムはみどりのハンカチ! 気になる人にあぷろーちされるかも!」

 どうやら私は占われているらしい。隣の椅子で足をぶらぶらさせながら、彼女は「ごめんなさ〜い! きょうのさそり座はさいあくです。じぶんと向きあうじかんをたくさんつくりましょう」と宙に向かって言った。

 するとそのとき、「ここちゃん!」と声を上げながら看護師さんが走ってきた。病室から抜け出してきたのであろう彼女は、いたずらがばれた子どもそのものといった表情をこちらに向ける。そして看護師さんの腕の中から、右手をめいっぱい広げてみせた。
「あたしはさそり座。もうすぐごさいなの」


 さそり座の彼女は、私が待合スペースに行くと決まってそこにいるようになった。私がいない日にもいるのかどうかは定かでないけれど、私を水曜日のいい暇つぶし相手として認定したのは間違いないだろう。

 彼女の占いに耳を傾ける時間は悪くなかった。同世代から当たり前に求められる変な気遣いはいらないし、周りからの好奇の視線もすぐ気にならなくなるくらい、ゆるやかな居心地のよさを感じていた。

「うお座のあなた、きょうはのんびり過ごしてみて。ラッキードリンクはこーひー!」
「きょうのうお座はいちにち冴えない日。ドライブでキブンテンカンしてみて!」
「きょうのうお座のあなたにはレモンスカッシュ! ソーカイなきぶんでまわりもあかるくできちゃいます」

 後から気がついたのだけれど、彼女の台詞は早朝の情報番組で聞くそれと同じだった。まさかと思って水曜日の朝に確認してみたら、その日の病院で言われた台詞は一言一句違わなかった。つまり、彼女は全て暗記していたのだ。

「あのね、あたし、きのうごさいになったんだ」
 彼女があのときと同じように右手を広げたので、私はそこに星占いの本を収めてあげた。いつ彼女の誕生日が来てもいいように、病院へ行く日には常にかばんに忍ばせておいて正解だった。いたく喜んでくれた彼女は、その日から占い本の中身もそらで読んでくれるようになった。彼女は聴覚だけでなく、視覚で記憶するのも得意だった。

 私たちはそうして、週に一度の不思議な時間を共に過ごした。──あの日が来るまでは。


 初雪が降った水曜日は、彼女が初めて待合スペースに来なかった日だ。今日は早くに看護師さんに捕まってしまったのかもしれない、と思って次の週来てみると、またいなかった。星占いのない朝は、本格的な冬が来てからも延々と続いた。

 木曜日と金曜日に、私は用もないのに病院へ来てしまった。それでもやはり彼女はいなかった。頭にタオルを巻きつけた小さな身体を思い出す。まさか、のその先の思考が見当たらなかった。もしかすると、きっと、で揺れる脳内を埋め合わせた。

 あのとき、穏やかに整えられているはずの大好きな病院で、ぽつんと乱れる自分を感じた。それは彼女と出会う前よりもずっと、ずっと孤独な乱れだった。私は病院に通うのをやめ、単位のために無理やり学校へ行った。階段を上るだけで動悸がおさまらなかったけれど、どうせ自分もぐちゃぐちゃなのだから、余計なものが入り混じるその環境は今更のように肌に馴染んだ。結局、そのまま何事もなく卒業を迎えた。

 夏の夜、さそり座を見つけると彼女を思い出す。そして初雪が降る朝は、胸が締めつけられてどうしようもない気持ちになる。あのあと病院で彼女について尋ねることもできたけれど、それは私のするべきことではないような気がした。だから彼女は今でも5歳の彼女のまま、私の隣で星占いを続けている。私はあれ以来、一度も朝の星占いを見ていない。



ピリカ文庫寄稿作品です。
ピリカさん、お招きいただきありがとうございました!


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