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今だけでいいから、狂わせて

さすがに半袖シャツで寝たくなって、納戸から久しぶりに彼に借りたままのTシャツを掘り起こしたら、ぶわっと、一年前の彼の匂いに包まれた。

この服を洗濯に出して積んだままにしてから、いったいどれだけの時が経ったのだろう。たぶん半袖で寝る必要がなくなった去年の秋ごろから、ずっとそのままだった。

数ヶ月分の匂いをぎゅっと詰め込んで、服からは目眩がするほど濃い匂いがする。懐かしくて、それでいて新鮮で、気がおかしくなりそうだ。

去年の私は彼の家に泊まる荷物を極力減らしたくて、寝巻きを持っていかなかった。というのは本音のうちの半分で、それにかこつけて彼シャツをして一人ときめき遊びをしたかったのが残り半分の本音である。
それに細身の彼がすっぽり収まるくらいのシャツでも、私が着るとオーバーサイズぐらいになる。大きな袖が肘あたりまで覆ってくれるから、今の暑かったり涼しくなったりする季節にはちょうどいいのだ。


初めて彼の車に乗り込んだとき、全身を抱きすくめられたとき、別れ際に唇を重ねたときを走馬灯みたいに思い出す。恥ずかしい記憶ばかりが並んでしまうけど、彼からこの匂いがするのはいつだって身を寄せたときだった。大好きで、切なくて、お腹の下がきゅっと疼く匂い。

そういえば遠距離の頃は、彼の脱いだ衣類(彼の名誉のためにあえて伏せておきましょう)をジップロックに詰め込んで持ち帰り、たまに袋から出してその匂いを嗅ぐのが私の習慣だった。当たり前だけど、今着ているこの服と全く同じ匂いがした。電話越しの声に切なくなったり、気持ちを落ち着かせたくなったりしたときにはジップロックを開き、胸いっぱいにその匂いを吸い込んだものだ。

一日中彼の肌に触れて染みついた匂いよりも、柔軟剤の匂いの方が圧倒的に勝っていて、そして息が長かった。ほんとうに寂しい夜にジップロックから取り出したまま抱きしめて眠ったら、さすがに匂いが薄れてしまい悲しくなった覚えがある。


今、私はあの頃の彼と同じ柔軟剤を使っているはずなのだけれど、どうしてだろう、この服みたいに全身が丸ごと攫われてしまうような色気づいた匂いは、しないような気がする。私が洗濯するときに使う柔軟剤の量が少ないのだろうか。それとも、普段の自分の匂いに慣れすぎて、時間が経って色濃くなった匂いにとびきり敏感になったのだろうか。

まあ、なんでもいいや。好きな人の匂いは死ぬまで好きな人の匂いだ、とばかみたいに信じきっていられる今のうちに、存分に堪能しておこうと思う。
この匂いが、彼の纏う匂いが嫌になる日も、決して来ないとは言いきれないのだ。長い長い一生の中で、いつまでもこんな夢見心地でいられるだなんて思っていない。だからこそ夢みたいな今をめいっぱい味わわないと、人生の3分の1は損してしまう。

シャツの胸元を握り、鼻に寄せる。ただ息を吸うだけで、麻薬みたいにその匂いに取り憑かれる。今だけかもしれないこの感覚を、せっかくなら脳みその隅々まで染み渡らせておきたい。そして彼が帰ってきたら、本人の匂いも思いっきり吸い込もうと思う。生身の彼の匂いを胸いっぱいに堪能できるのも、今だけの楽しみかもしれないから。


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