見出し画像

本にカバーをしないで読みたい

本にカバーをしないで読みたい、と思うことがある。
本屋さんで本を購入するとき、雑誌などのサイズの大きな本でなければだいたいはカバーを付けてくれる。
でも読み終わった本はカバーを外して自宅の本棚に並ぶから、ほんとうはそれがなくてもとくに不都合はないんじゃないかと思う。

傷まないように、っていうのはたしかにある。
でもほんとうの理由はそこじゃなくて、何を読んでいるのか知られたくないってこと。
なにも秘密主義者を気取っているわけではなくて、何て言うか、他者の評価が気になるとでも言えばいいのか。
そう、ひとにどう思われているのかを、昔からとても気にしてしまうのだ。

毎日の通勤で往復2時間あまりをすごす電車のなかでは、だいたい本を読むかスマホを触っている。
お腹がすぐゆるくなるので必死にがまんしていることもある(下の過去記事参照。読んで頂けたらうれしいです)。

お腹の話は置いといて、本もスマホも区切りがついたらあとは人間観察。
および妄想。
自分はひとの目線が気になって仕方ないっていうのに…。
ほんと、もうこれは治らない。

だからお向かいに座っている40代半ばのちょっといかついお兄さんが介護福祉士のテキストをしかめっ面で読んでいたときは、ついに訪れた彼の、親御さんの介護の日々に思いを馳せた。
音漏れの激しい新米サラリーマンが自己啓発本を読んでいれば、その前に常識から学びなおすかいいイヤホン買えよと毒づきこんなのを採用した会社のセンスを疑った。

自分がそういう目線でいるから、自分の振る舞いによって、自分が読んでいる本によって、自分が他人に規定されるのが怖い。
基本的になんでもネガティブな見方をするから余計になんだろう。

ひとは思った以上に他人に興味がない。
仮に不本意な印象を与えてしまったところでこっちはまず気づかないし、取り返すこともできない。
それはわかってる。
でもやっぱりまだまだ気にしてしまって要らんストレスを抱えたりしてしまうことがある。
こう思われたらどうしよう、とか思ってしまうともう動けない。
そうなるともはや本のカバーうんぬんの話じゃなくなってしまうんだけれども。

周りに迷惑をかけず、自然体で振る舞える、自然に場に溶けこめるようになりたい。
ほんとうはそんなこときっとできていて、誰の印象にも残らないその他大勢をしっかり演じているんだろうけど、自分でそう思えているかっていう意味で。

そんなことを思いながら、東京の西から東へ、東から西へと日々揺られつづけてきた。
これからもそんな毎日がつづくのだろうか
もっと大きな何かで悩みたいな。もうすぐ40だし。

今度カバーを外して本を読んでみよう。
難しい顔して経済の本を読もうか
目をうるうるさせて恋愛小説を読もうか

…って
そういう話じゃないんだけど。

いただいたサポートは、ほかの方へのサポートやここで表現できることのためにつかわせていただきます。感謝と敬意の善き循環が、ぼくの目標です。