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夢は何かの暗示だとか。

降りつづく雨のなか、たくさんの水たまりを避けながら歩いていた。
しばらくはうまく歩けていたのに、だんだんバランスをとるのがむずかしくなってきて、ついに水たまりのなかにはいってしまった。
パシャン、と音がした。
水たまりは思ったよりも深くて、すぐにスニーカーのなかに水が浸みこんできたけれど、ぼくは不思議と足もとを眺めたまま、その感覚を味わっていた。
そしてもう片方の足を、ゆっくりゆっくり、その水たまりへと下ろした。
さっきと同じ感覚を、もう一度味わった。
なぜだかぼくはうれしくなって、しばらくその場に立ち尽くした。

また歩きはじめて、足がすこし重たくなったなと思ったけれど、なにかあたらしい感覚を身にまとったような気がして、雨のなかでもこころは晴れやかで、歩みも軽快だった。

今日は、そんな夢を見た。
目覚めたとき妙に生々しい感覚があって、外を見ると、雨。
夢のなかの雨は、今日の雨のようにつめたく悲しげではなくて、もうすこしあたたかみがあった気がした。粒の大きな夏の雨でもなくて、梅雨でもなくて。
線の細い、やさしく水たまりに落ちては控えめな円を描くような雨だった。

夢は何かの暗示だとか、何かを示唆しているとか。
普段はあまりそういうことは思わないし、占いも信じない。
でもあまりにタイムリーな示唆を得てしまうと、こころはざわつく。
起きぬけにそんなことを思ってベッドから身を起こすと、今日の真冬に戻ったような寒さもあったけれど、つめたい風に撫でられたようなひんやりとした感覚を全身が包んで、ぶるっと震えた。

これをきっかけにしてしまえ。
一歩踏み出せと、どこからか声が聴こえる。
あたりを見渡しても声の主は見えないのなんてわかってる。
それは、自分以外にあり得ないから。
そんな声を、信じていいのだろうか。
直感とか、勘とか。
そういうのを極力避けて、石橋をたたいてたたいて渡ってきたのに。

でも、そのとき同時に思った。
石橋をたたいてたたいてたたき過ぎて、いつの間にかボロボロになって、渡れなくなった橋もたくさんあったんじゃなかったか。
衝動で動かず、注意深く。
それは、動かない、動けないことへの言いわけだったんじゃなかろうか。

軽快に歩みをすすめたその先に、もっとおおきな水たまりがあるかもしれない。
今度は抜け出せないかもしれない。
でも、こころは背中を押している。
今が一歩、踏みだすとき。
何年か先に、あの夢がきっかけだったんだよなぁとなつかしく振りかえることができるような。
今日の夢を、そんな夢にしようと思った。




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