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大好きな人の温度で。

仕事を終え、家に帰る。
真っ暗な部屋の、電気はつけない。
キッチンの換気扇の、ちいさな電気だけをつけて、荷物を置く。
音をたてないように、そっと、静かに。
服を脱ぎ、丸めて洗濯機に投げ入れる。
風呂場の電気をつけ、シャワーを浴びるその前に、冷蔵庫を覗く。
半裸の身体を、冷気がふっとなぞる。
一番上の段には、ラップのかかったいくつかの器が並んでいる。
それらを一つひとつ取り出して、中身を確認しては、また戻す。
冷蔵庫の明かりに照らされたそれらを、いつも愛おしく感じる。
ついつい長く開け放してしまいがちな冷蔵庫の扉をそっと閉めて、熱いシャワーを浴びる。



これは、平日、一日の終わりの、ぼくのいつもの光景だ。
彼女とのふたり暮らしをはじめて4カ月。
生活の時間帯のちがうぼくらは、同じ家に暮らしているのに、平日はほぼ話すことはない。

ぼくが帰るころ、彼女はすでに夢の中にいて、彼女が一日をスタートさせるころ、ぼくはまだ深い夢の中に潜り込んでいる。
ぼくが起きたときには彼女はいないし、彼女が帰ってきたときにはぼくはいない。
活動しているお互いに会うのは、休日だけ。
あとは、寝顔を見ているか、ひとりか。
ぼくらのふたり暮らしは、そんな毎日の繰り返しだ。


彼女はいつも、ごはんをつくってくれる。
冷蔵庫の最上段に、ラップをかけて、置いてくれる。

今日のごはんはなんだろな。

毎日そんな気持ちで、冷蔵庫を開ける。
それがぼくの、楽しみでもある。
彼女に感謝する、理由のひとつでもある。
何が入っていても、結局うれしい。
帰ってきて、荷物を置いて、服を脱いで。
そのあとに冷蔵庫を開ける。
これから寒くなるから、冷蔵庫を開けるのは服を脱ぐ前になるかもしれないけれど。
これはぼくにとって、一日の締めくくりの、オンからオフへとスイッチを切り替える、儀式のようなものだ。



シャワーを浴びて、髪を乾かし、彼女のつくってくれたご飯を食べて、チナールをソーダで割って、2杯飲む。
歯を磨いて、トイレに行って。
そうして、ひと息つく。
ぼくの一日は、まもなく終わる。
あとは彼女のとなりに、チナールですこし重たくなった身体を滑り込ませるだけだ。


彼女を起こさないように、そっと寝室にはいる。
クローゼットの扉を開け、上着をかける。
彼女はだいたい、こちらを向いて寝ている。
穏やかな表情のときもあれば、難しい夢でも見ているのか、眉間にしわを寄せて、険しい顔をしているときもある。
となり同士のベッド。
ぼくはベッドの端に腰掛け、眼鏡をはずして、アラームをかけて、横になる。
ぼくの気配を感じるのか、彼女がうっすらと目を開ける。
ぼくの姿をみとめて、にっこりと笑う。
じりじりと距離を詰めて、くっついて、ぼくに温度を分けてくれる。
身体の外側から、内側から、満たされていく気がする。

今日もごはん、おいしかったよ。

左側の彼女に、そう伝える。
ちいさな声で、ひと言だけ。
まだ目覚める時間じゃないから、そのままゆっくり、夢の中へ戻れるように。
返事をするかわりに彼女は、ぼくの身体に回した腕に、すこしだけ力をこめる。

緩やかに彼女の腕の力が抜け、ふたたび規則正しい寝息が聴こえるようになるころ、ぼくも静かに目を閉じる。
睡眠と覚醒のあいだに漂うようなこのぼんやりとした状態を、満たされて眠ることの安らぎと充実感を、もうすこし味わいたいのに。
ぼくの意識はただちに遠のき、抵抗虚しく眠りの世界へと引きこまれてしまう。
一日を、大好きな人の温度で終える。
穏やかで、けれど決して当たり前ではないであろう、そんな日常を。
これからもずっと、手放さないようにと誓いながらも。







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