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気付きの迷宮

突然だが、私はとても視力が良い。多分、この年齢でレーシックなどの治療を受けずに、裸眼視力を両眼ともに1.5をキープしているのは、割とレアなんじゃないかと自負している。それゆえなのか、些細なことに気が付いてしまうことが多々ある。

例えば、病棟で働いていたとき。患者さんが内服しそびれて床に落としたまま放置されていた錠剤を発見するのは、大抵私だった。もちろんそれは、インシデントレポートとして規定のシステムに入力することになる。しかも、こういう誰が直接的に関わっているのか分からないものについては、発見者が記入することになる。自分がやらかしたことで時間をとられるならまだしも、自分が関わってないことで時間をとられるのはなんだかなぁ……と思いながら、その業務にあたっていた記憶がある。

その他にも色々と気付きすぎてしまう節があり、こういう自分の特性って損するだけなのかなぁ、とぼんやりと思っていた。気付いた事柄を、自分でうまくコントロールできないことも多々あった。

おそらく、「気付いてしまうこと」そのものは、問題ではないのだろう。問題は、それをどう扱うか。敢えて見て見ぬフリをするのか、何かしらのアクションを起こすのか。その時々の適切な判断ができるようになれば、大きな武器になるのかもしれない。例えばビジネスビルの階段の壁につけられた足跡を見て、「この建物には人目につかないところで感情を爆発させてしまうくらいに、強いストレスに晒されている人がいる可能性が高い」と分析できるとか……。

ただ、この「気付いてしまうこと」自体にも、落とし穴がある。誰が見ても共通認識できる事実(まさに最初に挙げた「錠剤が落ちている」といった現象など)の場合はいいのだが、その後に判断に至るまでの間に、何かしら自分の思考が挟まる場合が問題なのである。

かなり前の記事でも書いた通り、私は敬愛するお方から他者規定性の強さを指摘されている。悪癖として自覚はあるが、なんせ数十年かけて培われた悪癖ゆえ、そう簡単には治らない。事象を曲解して勝手に傷付くこともある。そういう悪癖を少しずつ直すためにも、「気付いてしまうこと」との付き合い方を模索していく必要があるのだろう。

いずれ歳を取ればきっと、今の見えすぎてしまう世界ともお別れすることになる。それまでの間、少しでもこの性分を活かしていけたら、と思う。

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