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諦めを学ぶ途上

生きづらさのフェーズが変わったように思う。前は、自分の夢(医師になりたいことと、もうひとつのやりたいこと)に片足すら突っ込めない状況が苦しくて、自分に与えられた現実を受け入れたくなくて、それが生きづらさに直結していたように思う。

今はそれらに両足を突っ込んで、どちらもそこそこ進んできた。「医師になること」に至っては、今の調子でいけば、あと1年ちょっとで実現する。じゃあ、なぜそれでも生きづらいと感じてしまうのだろうか。

それは、今度は「何者にもなれない自分」に対して満たされないからなのかもしれない。

何者かになりたくても何者にもなれない人で溢れているこの世の中で、最終的にやはり何者かになりたいと願い続けている自分は究極の愚か者だと思う。

次世代を産み育てているわけでもなく、容姿も凡庸、頭だって良いわけではなく、歌唱力や文才だって突出しているわけでもない。これと言って秀でているものは何一つなく、やはり「私には取り柄がない」という状態だと思ってしまう。

「何者かになりたい」というのは、「○○になりたい」と具体的な目標があることよりも漠然としていて、掴みどころがない夢だ。そもそも「何者」ってなんだ?

己の凡庸さを自覚しながらも諦められない。そんな自分がとにかく愚かだ。

私に出来ることは何なんだろうか。出来ることなんて、あるんだろうか。

私は、とにかく実年齢に見られないことが多い。かなり若く見られる。それは、人間性の未熟さが表に出ているような気がしている。遠回りをしてきたことで人間的に多少は熟したと思っていたけれども、結局は年齢と共に得た建前や立場をうまく利用して、直らない悪い部分をカバーしているだけに過ぎない。本質は変わっていない。

心底敬愛するお方から、『諦めの価値』という本を処方されたので読み進めている。まだ少ししか読めていないけど、既に自分に必要そうなことが書いてあるな、と感じている(わたしは本を読む時に、読みながら少しでも引っかかったフレーズがあると付箋を貼っているのだが、既に何箇所も付箋を貼っている)。

読み進めて、自分のこれまでの生き方や性分、方向性についてしっかりと考えていきたい。

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