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是枝裕和監督『怪物』-その”真実”は誰のもの?

昨年公開の是枝監督の映画『怪物』を
やっと見ることができた。

※以下一部ネタバレを含みます。

この映画は子どもの学校でのいじめを
きっかけに、社会問題化している教育現場の
課題や多様性とは、などについてしっかり
描きつつ、その中で私たちの日常の中にも
スッと入り込み、観る者を試すような
是枝監督らしい映画だった。

『怪物だーれだ』のセリフは、
まさにこの映画のキーワード。

自然な展開ながら、登場人物全員に感情移入し
真実を突き止めたい思いに駆られる。
だが、「真実」はどこにも存在しない。
というよりそれぞれが信じる「真実」が
登場人物の数だけ存在していて、
「そりゃあ・・この人から見たらこう思って
当然だよね」とそれぞれに納得させられる。

いわば、誰もが誰かにとっての「怪物」。
ひとりひとりの登場人物に感情を重ねてはじめて
それに実感を持って気づくことができる構成に
なっていて、おもしろい。


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人はみな、自分が見えるもの、感じるものを
たよりに、それを信じて行動する、しかない。

でも、それぞれに捉え方はまったく異なり、
そこから生まれる感情も、言葉も、
あたりまえに人の数だけある。
そんな日常にありふれたことがきっかけとなり
その思い込みを信じて突き進むことが、別の
誰かにとっては「怪物」そのものになる。

先日、会社でこんなことがあった。
私の上司が何やら軽率でひどい発言を
していたらしい、と同僚から聞いた。
私は上司がそんなことを言うなんて信じられず、
その時の会話の流れや言葉のあやで言って
しまったのでは?とその同僚に言葉を返した。

でも何が本当だったのかな、と心の片隅では
少し気になっていた。
ひょんなことからその上司と直接会話をした
先輩と話した時、その発言の裏には上司自身に
1つの勘違いがあって、それに気づいたときの
おどけるような発言だったと知り、安心した。
これが私にとっての「真実」になった。

深く掘り下げるとその上司がどんな意味でその
発言をしたのかなど、本人にしか分からない。
もしかしたら本人にも分からない、なんてこと
もある。
それを受け取った人の解釈やその人がまた誰か
に伝える時、その伝え方や受け手の解釈により
発言した本人にとっては誤った切り取りになりかねないのだ。
だから、誰にとっても普遍的な「真実」なんて
ものはどこにもない。

こんなことなんて、毎日のように起こっている。
事実を知ろうとせずに誰かの言葉を鵜呑みに
して思い込むのは簡単だけど、その思い込みは
心の中で深く深く根を張り、悪さをすることが
ある。その頑なな思い込みに左右される私を見て
「怪物」と思われたなら、分かり合えたはずの人
でもそのチャンスを逃してしまうかもしれない。

そう思うと、もっと「バランス感覚」を
磨かなければという気持ちになる。

結局は自分自身の「真実」を信じるしかない
けれど、せめてその「真実」にたどり着く前に色々な確度からフラットに観察して、聞いて、対話をしていく柔軟さがあれば「怪物」を
作り出さずに済むのかもしれない。

そんなことを考えさせられる、
深い映画だった。



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