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#14/パン屋録に書かれていない世界

パン屋の日常を覚えておきたくて、間違ってもコロナという1つの大きな非日常に記憶を浸食されたくなくてパン屋録を書いている。

以前メロンパンを食べて育った男の子の話を書いた(こちら)。
私はえらく感動したから書いたのだが、母は「特別な出来事ではないのよ。お客さんから幸せをいただく場面は結構あるの」と飄々としていた。
普段は感情を全身で表す小動物タイプの母(なんなら見た目もヒヨコっぽい笑🐤)。飄々も堂々も似合わない。
そのエピソード、ちょっと聞かせてよ。

「はじめましてのお客さんがね、遠方からわざわざ来てくれて。入院してるお友達が、ここのクリームパンを食べたいって言うからお見舞いに持っていってくれたり。あとは受験生の息子さんを持つお母さまが、夜食用に好きなパンを切らさず買っておくことくらいしか応援できないからって頻繁に来てくれたり…」

「ここほれピヨピヨ」と言わんばかりに、たくさんの話が出てくる。

両親から聞く事実の断片をもとにパン屋録を書く時間は、私にプレパラートから覗く世界を想起させた。

プレパラートを覚えていますか?
理科の時間に顕微鏡の上において組織や細胞を観察したでしょう。そう、手の平サイズのスライドガラスです。

子供のころ、プレパラートを覗くのがやたら好きだった。見れば見るほど、「こんなにも見えていない世界は広いのか」と宇宙に放りだされたような感覚になった。
ミクロの世界に陶酔しただけではない。プレパラートは1つの断面に過ぎず、だから必ず「プレパラートに押し込まれなかった外側」が存在する。
私はどちらかと言えば、外側にあるマクロを想像するのが好きだった。万華鏡のように全ての像を見ることができないことがもどかしく、吸い込まれるような突き放されるような不思議な心地がした。

大人になった今も、この感覚を味わう瞬間がある。
たとえば1つの知識に触れるとき、新たに5つの分からないことにぶつかる。世界の外枠がグイっと押し伸ばされると同時に、さらに外側に未知なる世界がひそんでいる確かな実感を伴う。

パン屋録も同じだ。
書くほどに、外側にある書かれないことの存在感が増してくる。
60代からパン屋をはじめた「夢追いオヤジ」が見せてくれた夢も、おそらく書かれない部分にこそ広がっている。

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