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接触禁止が終わった交通事故と、書く理由

息子と接触禁止期間が約二年ありました。似ていることで行き詰っている方が、一人でもこれを読んでくださり、細い糸口になれば、と書いています。

家賃一万円台の都営団地では、深夜に子どもの泣き声が響くことがあり、
息子が幼いころ、泣いていた声に聞こえ、
保護施設で今も泣いている気がして、
布団をかぶって泣いたことがよくありました。
今思うと、うつ状態だったと思います。
人間関係でも家族のことでも、行き詰った経験がなく、
自分を粗雑に扱ってきた私は、親になって初めての感情を
たくさん味わいました。
代われるものなら代わってあげたい、気持ちを軽くしてあげたいと
寝ても覚めても考えていました。

狭い団地で襖や扇風機、お皿、母妹、手当たり次第
かつての父親と同じように持って行き場のない気持ちを
それらにぶつけていた息子は、
私が救急車で運ばれた病院医師の通報で
児相の保護施設に入っていました。

当時16歳だった彼の様子は、
児童相談所の担当者に電話で聞くことしか
許されていませんでした。
最初は毎日から2-3日おき、児相担当者さんは皆さま忙しく、
5日、7日と空けるようにしていきました。
デジタルオタクなのに携帯も持たされず、
施設の小さな子たちの面倒をよく見ています、と。
突然戦場に息子を取られた母親は、
こんな気持ちなのかと考えたり。

青年寮に移ってからやっと、
許可された手紙や差し入れを託しました。
18歳の誕生日を過ぎ、児相から保護解除通知がきましたが、
自宅のカギは送り返され、泣き崩れたのを覚えています。帰宅拒否を意味していました。

寮のスタッフに助けていただき、
息子は17歳から仕事に就いていました。
プラスチック製品の工場で働き、
展示場で名刺交換して製品を紹介したり、
イベントがない時は所内で検品。
インターンだったようでした。
その後、回線設置業者に就職、社員寮に移り、
一人暮らししながら、自活しています、とのこと。
会社のワンボックスに数人と乗り、
基地局設置で全国を奔走していると聞いて、
自分もしっかりしなくては、と思っていました。

ある日の深夜0時0分ちょうど入浴中、
しかも知らない番号からでしたが、
緊急としか思えず、急いで出ると、

   東京●●消防、●●です。
   ●●くんのお母さんですか?
   バイクと自転車の息子さんが接触しました。
   都内で救命救急ができる病院へ搬送します。
   すぐに来られますか?
   保護者のサインが必要となります。

全身の血が下がり、震えました。回らない頭で寮長さんへ連絡し、許可をもらって駆け付けました。
ICUでの一年数か月ぶりの再会は、経験したことのない気持ちでした。
会ってくれるのかも直前までわかりませんでしたが、息子は2歳大人になった穏やかな顔で

  おー、悪かったね

と笑って抱きしめてくれました。長い日々でした。
そこから結婚、出産、新居へ引っ越し、
生き急いでいるかのようで心配ですが、
都度都度、手伝いに来てよと呼んでくれるので
都合よく使ってもらっています。

もしも。
この感染状況下で更に、どこにも逃げ道がない
親御さん、お子さん、ご兄弟、見守る親族の方
その渦中にいると、大波に飲まれるように
どちらが海底で、どちらが空かもわからず
わからないまま息をしないでいようと
本人もろとも、と何度も思うのではないでしょうか。
わかります。全く同じです。
我が子に手をかけた事件
そうなっていた可能性は充分ありました。
思いとどまれた言葉は

   一番辛いのは彼だと思いますよ。
   お母さんのことが大好きで甘えてるんです。

どうか。未来を。希望を。
子どもには無限の可能性があり
差し伸べる手は必ずあります。
たぶん、今も陰ながら応援してくれている人が
すぐ近くにもいらっしゃると思います。
どうか、信じて美味しいご飯と笑顔で。
子どもはみんな、親の笑顔が大好き(๑′ᴗ‵๑)です

★写真は昨年、嫁が二人目出産入院中、
私の作る夕飯を待つ、二児パパ息子と孫です。

息子9歳、娘5歳ごろの様子はこちら↓


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