見出し画像

それは越えられないのだろうか

ある意味、私も所詮人間なので偏見などもあるとは思う。

とはいえ、例の車椅子の女性の方・・・(車椅子でイオン映画館に行かれたという女性の方の話です)
どうでもいいから、礼儀のある行動をしてくれればいいんですと思ってしまう。

映画館であろうと、電車であろうと、車椅子で危険がないように考えるのはできるでしょうに。

どうしても、自分の弟が全身に痛みや痺れを感じながら必死に歩き、物事が耳に届かず、言葉で伝えることもできず、そして今現在車椅子になってしまって。

また、と、ある投稿で、障碍のある人はやってもらうのが当たり前になっていて、やってあげることの理解が追いつかない・・と言うのを見て・・
別段、それに対して意見を言うつもりはないし、ちょっとゲンナリしただけだ。

いつまで経っても境界線が取りきれないんだろうなぁと思えてしまった。

やってもらうことばかりで・・と言うのは確かに0ではないと思う。
が、私の弟やその周辺の障碍を持った人たちは、やってもらったらお礼を言ってくれるし、話をすることもできる。
寝たきりで動けない方も、目を見てその表情で変化がわかる。

弟も、やってもらって当然と言う時期はあった。
でもこれ・・健常者でもあるものではないだろうか。
「それは良くない」と話をして、たくさん話をして、今に至る。

また、私の両親は障碍のある弟に対して、だからこそ身だしなみを大切にすること、お礼を言うことをどちらかと言えば厳しく躾けてきていた。

生まれて、入浴さえも体力を奪うので2・3日に1度。
そんな状態でも少し体力をつけられた時には、親子喧嘩は凄まじかった。(笑)

弟がさまざまな経験後、自宅に戻ってヘルパーさんの手助けが入り用になった頃。
驚いたのは最初に出会ったヘルパーが信号無視をした弟を追いかけて一緒に渡った・・・と言うこと。
今回の新しいヘルパーさんには、「一般的に考えて、ダメだと思われることには叱ってください」とお伝えした。

親であろうと、友達であろうと、ダメなものはダメと言える関係性はとても大事だと思う。

どんどんとバリアフリーをと訴える人たちもいるけれど、この社会情勢でそのお金はどこから出るのかを考えてみてほしい。
今日・・3月29日・・・車椅子で電車に乗っていた人がいたけれど、その車椅子は細いタイヤ・・この細いタイヤは車椅子の重さを軽減するのにとても良いものなのだけど、時として油断すると電車とホームの合間の隙間に挟まる可能性がある。

実際、私が弟の車椅子を押していて、挟まった経験がある・・それはとんでもなく怖かった。
車椅子に乗っていた弟はもっと怖かったろう。
無理をすれば電車も傷がつくし、車椅子が壊れる可能性もある。

車椅子は安くはない。
なぜなら、使用者が長期間において使うから個人個人のカスタマイズをするから、料金がかかるのだ。

面倒だったり、手間だったりと思うのは健常者と同じ考え方だろう・・それ以降、弟を電車に乗せるときはスロープをお願いしている・・・時間がかかるなら早めに出かければいいだけの話。

実際、電車の件での車椅子の方が揉め事を起こした時に、リアルに舌打ちをされる経験が私は増えたと感じた・・・
私はいい・・思いの外攻撃的な面のある人間なので、いざとなったら喧嘩する(笑)

しかし、高齢の母はいつもいつも「すいません、ごめんなさい」と言う。

そう、母は時代も時代であることから「障碍者を産んだ嫁」と扱われてきている。
それでも、弟を一人前に(悪さもすることあったけど)育て、今、やっと理解力のあるヘルパーさんに出会い、やっと子離れの時が来ている。

守って守って守って・・それを誰が悪いと言えるのだろう・・・
それでも、一生一緒にはいられないのだから、安心してもらうために動かし始めねば。

障碍を持ってしまったことは「かわいそう」なことでは「ない」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?