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欠け

その昔、私が小学6年生の頃の話・・・

5年6年は同じ担任で、これは進学を考えた上での教育方針のブレがないようにとなっていたものだったと思う。

その頃、「障碍」に関し、6年にもなって・・と言うのはあったが、3年生で該当の小学校に転校してきてから(正しくはその前の学校の記憶がほぼない・・幼稚園はあるんだが)「障碍というものに関し」いろんな同年代の考え方に翻弄された。

6年の時に担任が障碍を持った弟をからかう様な態度があった・・正しく障碍ある弟を持った私をからかっただけなのだろうが。

担任は、ある日・・・クラスの子供達を全員立たせてこう言った。

「風邪を引いたことのある子は座りなさい」
「虫歯になったことのある子は座りなさい」
「骨折したことのある子は座りなさい」

結局、全ての子が座ることになるように進めていた。

そして「この世界の人々は必ずと言っていいほど『欠け』を持っています。その欠けは神様がそうしたのか、肉体的な遺伝子なのか、はたまた交通事故なのかそれは個人個人が違っています。けれど、欠けを持った人は誰かの手を借りて回復し、生活をするのです。助け合うと言う事は簡単では有りません。欠けをバカにしてはいけません。してしまえば、いつか自分が欠けた時同じ事になります。』そんな話しされた。

もちろん「自分は助けなど借りた事はない」と言った子がいた。
しかし担任は『食事の仕度は誰がしているの?生活のお金は?』と聞き返し『これも欠けの1つなのよ?』と。

その後、2、3人の女子が頭を下げに来たけれど何で謝って来たのかは今でも解らない。
でも、そうしたいと思いしたのだろう。
これは手を貸したいと思ってしたのと似ている。

誰でも『障碍』を持ちたくて持ったのでは無いと思う。
この『持った』と言う言い方だって問題になってしまう程、繊細な所だろう。

私が障碍の『碍』の字を『がい』と開くのでもなく、『害』と書くのでも無いこだわり?もそれに近いのかも知れない。

その昔では、『害』ではなく、『碍』でもなく、『礙』と書かれていた。
『障礙』とされ、『妨げる』て言う意味で略字として『碍』となった訳だ。
さらに常用漢字の制限で『害』と言う音読みが共通のものが使用されている。

この先、どこまで行っても差は無くならないのかも知れないし、無くなるのかも知れない。
それは解らない事だけど、差を無くす努力は出来る。
したい・したくないは個人に任せよう。

しかし、同じ地球上の同性物間でそれが出来ないとしたら、宇宙人とのコネクトも遠いなとは思うけれど。


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