裁判官の憂鬱
「常に公平性を保つ裁判官のような性格です。」
中学生時分、通知表の担任コメント欄に書かれていた言葉が、なぜだか今でも印象に残っている。
生来自分は物事が1枚硝子を隔てた先で起こっているような気のすることがあり、友人同士の諍い、または自分の関与するそれに対しても良くも悪くも他人事であった。正直言ってどうでもよい。巻き込まれたくはない。
しかし常に避けられるものでもなく、時には関わり合いにならなければいけない場合もある。
そのような時、どちらを立てるでも貶すでもなく当たり障りのない発言や唯事実としてそこにある物事ばかり話していたら、そのような評価を得た。
担任は自分のそれを褒めようとしてこう評価したのであろうが、自分はこのコメントを読んだ時、正直、どきりとした。
自分が子供らしくもなく、諦観した振りをしている事がバレていて、もう少し子供らしくしなさいと言われているような気さえした。実際、それら全て自分の性癖である悲観的思考による考えすぎなのであろうが、なんだか妙に恥をおぼえた。
現在も、自身のそういった性質に気がつくとなんとも遣る瀬無い気分になる。他人と喧嘩を起こす気概もなく、事勿れと全て受け流す自分に嫌気がさす。しかしながら思春期に伺いすぎた他人の顔色が、脳裏にこびりついて離れない。
しかも、それは悪化して、自身が悪態を吐くことではりぼての自分に敵を作る形で自身の核を守ることもあった。
何が言いたいのかというと、もっと自分の心に優しくしてやりたいというところだ。争いを避けることは悪いことではないし、事実を客観視することも忘れてはいけないことだが、核を守るために表皮をボロボロにしていたのでは世話ない。
したがってこれからはそのような言動は程々に、時には心の赴くままに活動しようと思う。
これにより自己判断しなければいけない物事は増えるが、これまで余りしてこなかったツケのようなものだろう。
友人に、他人を否定しないところが好きだと言われた。
また別の友人に、大好きだけど壁を作っている時は怖い。もっと正直にぶつかってもいいんだよと言われた。
これらも自身の“裁判官”の性質で、自分は安易に人を責めないのにどうしてこちらはいつも責められるんだと苦しんでいたが、どこか救われた気がした。これまでの苦悩もきっと勝手に自分を硝子箱に閉じ込めていただけなのだろう。見てくれている人はきっとたくさんいる。
優しい公平性は忘れずに、自分自身の心を守っていこう。
素敵な目を持つ友人たちへ、私は解りづらい人間だけれど、こんなことを思っていたのだ。それを救う助けをしてくれてありがとう。あなたがくれる真っ直ぐな言葉に私ははっとさせられる。これからもその綺麗な目で世界を見てね。
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