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大衆社会論雑感

大衆は横並びでここ百年ずっと変わらず愚かだ、といった文をSNS上で見っかけた。オルテガの衆愚的大衆社会論だが、社会には大衆の他に公衆や群衆もおり、なんなら常民もいるので、現代社会を衆愚的大衆のみで語り尽くすのは難しそうに思う。また、大衆の横並び意識は一昔前の少品種大量生産が背景なのだろうが、いまの製造業は多品種少量生産かもしらず、だとしたら横並び意識がどれくらい生じるのかは怪しい。それに、オルテガは貴族的背景があって(と読んだ記憶があるのだが)、没落していく貴族の勃興してくる新興市民階級に対する恐怖と嫌悪があったかもしれない、というのも念頭に置いたほうがいいかもしれない。20世紀前半と現代とではどちらも大衆社会かもしれないが、実質はそれなりに変質している可能性もあるので(政治的にも経済的にも、さらに心理的にも)、オルテガの頃の大衆概念をそのまま現代に適用するのはどうだろう、と思わないでもない。

大衆社会論といえば、リースマンの『孤独な群衆』も有名だ。これは1950年の出版だが、空想を逞しくすれば、戦争が終わって各地に新たに住宅街を創り出してく時代で、そこに各地からバラバラな背景をもつ人々が移り住むのだが、知人も友人もおらず、孤独にもなる。大衆は孤独とい、うのはそういう社会的背景もあるかと思う。田舎人には必ずしも妥当しないのだ。すると、大衆は孤独だという大衆社会論の命題は都会限定になる。

こうやって考えると、オルテガ流の衆愚的大衆社会論にせよ、リースマン的孤独な大衆社会論も、いろんな観点から見直したほうがいいかもしれない。勿論そのすべてが間違いとも思ってないのだが。

なお、オルテガもヒトラーも大衆を衆愚とみなしており、その意味で両者の意見が結びつくという話もあるそうだ。ドイツでヒトラーを支持したのは中流階級でも下層の人々だ、とフロムが言ってたように思うが、だとしたら「大衆」と「下層の中流階級の人々」がどうつながるのか等も検討しなければならず、大衆社会化していたアメリカやフランスは独裁者を選んだのか、という疑問も生じる。20世紀前半の大衆社会論を21世紀のいまにどれだけ当てはまるのか。すべて当てはまるとは思わないが、すべて当てはまらないとも思えないので、いろいろアップデートしながら再検討すべきかと。



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