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ダンテの『神曲』研究1 ー ダンテの同情

ダンテの同情と非情

トンてつクラブ、文芸部員の敬道シーランです。いやあ、久しぶりの動画作成なので、まあ、私がやっているのは単純なものなのですが、それでも作成方法をすっかり忘れてしまいました。ダンテの同情問題について、ちょっと話していきます。ダンテの『神曲』ですね。『神曲』で、ダンテは地獄や天国を巡り歩くのですが、地獄では、ダンテはよくいろんな人に同情しているのです。

それって、いいんですか?という問いです。では、話しましょう。

同情とは何でしょうか。同情を「不当な扱いを受けた人の苦悩や不幸を、我が身のものとして共に感じること」だと定義してみましょう。このように定義すると、不当ではなくて、正当な扱いを受けた人に対しては、その人がどんなに悩み苦しむとしても、同情はできません。

例えば、理由なく殴られた人がいて、その人が「痛い、痛い」と苦しんでいたら、自分も同じ立場だったら辛いだろう、と思って同情します。しかし、わけもなく人を殴った人が、「何をするんだ、この野郎!」と殴り返されて、「痛い、痛い」と苦しんでいたとしたら、私たちは、「当然の報いだ、正当な扱いだ」と感じるので、あまり同情はしないでしょう。

このように、同情とは「不当な扱いを受けて悩み悲しむ人の気持ちに寄り添うことである」と言えそうです。

ダンテは地獄に足を踏み入れてから、地獄の罰に苦しむ者へ何度も同情の涙を流しています。しかし、これは一面においてきわめて不敬なことになります。なぜなら、神の定めた罰を受けて苦しむ者に同情することは、その罰が厳し過ぎて不当であるということになり、ひいては神を否定することにもつながりかねないからです。

「地獄」の第20曲では、妖術師と占い師が酷い罰を受けており、ダンテはそれを見て同情の涙を流します。すると、ダンテを導いているヴェルギリウスは、こんなふうに諭すのです、「汝なほ愚者に等しきや/夫れこゝにては慈悲全く死してはじめて敬虔生く、神の審判(さばき)にむかひて憐みを起す者あらばこれより大いなる罪人あらんや」と。つまり、神の定めた罰を受けて苦しむ者に対しては、慈悲の涙を棄てて始めて神の意に叶うのであり、神の裁きに苦しむ者に同情するのは罪人と同じなのです。

ダンテはヴェルギリウスにこのように諭された後は、同情することが減ったようです。第33曲では、食客を殺害した者が地獄に落とされ、罰として目に氷の破片を入れられて苦しんでいます。ダンテは「いざ手をこなたに伸べて我目をひらけ、我はひらかざりき」(手を私に伸ばして私の目を開けて下さい、私には開けられないのです)と請われても、その要望を聞かず、「暴(みだり)なるは是即ち道なりければなり」(虐げられるのも、それに相当する罪を犯したから当然だ)と言うのです。ダンテもようやく地獄の流儀に馴染んだようです。


参考文献
『神曲』(上) ダンテ著 山川丙三郎訳 岩波文庫
『ダンテ神曲物語』 野上素一訳著 現代教養文庫



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