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モノ vs. コト

今日は妻に付き合って図書館に行ったら、日本哲学の新書があったから、つい借りてしまった(他にも読まなければならない本が何冊か借りてあるのだが)。帰宅して偶々開いた頁に西田幾多郎のことが記されててあり、西田の哲学的立場がモノからコトへと移行した、とあった。私は西田哲学はよく知らないのだが、ラッセルも同様のことを当時の最先端科学を背景に論じていたっことを思い出し、では西田がそう唱えた背景には何があったのだろうか、と思った。以下は、しかし西田哲学に関してではなくて、モノとコトの対立に関して徒然なるままに書いたものだ。

[1]モノ観とコト観の対立
思想史上は、おそらくモノ vs. コトの対立はよくあることで、例えばバラモン教の梵我一如が実体として我を認めているとすれば、釈尊の諸法無我は実体としての我を否定しており、これもモノ vs. コトの対立とパラレルだろう。

進化論も同じ文脈から理解できそうで、簡略化すれば、ダーウィン以前は種の不変性の立場にいるのでモノ的であるのだが、ダーウィン以降の進化論は種の可変性を説き、種は固定されたものでなくて変わりゆく流れのようなものとなるのでコト的となる。ここにもダーウィン以前 vs. ダーウィン以降が、モノ vs. コトとなっている。

多分、この対立は政論にもあって、その一例が絶対王政と民主制となる。絶対王政は(革命でも起こらなければ)常に主権を担い続けることによって恒常的主体となるのでモノ的と言える。これに対して、民主政は政権交代が起こって主権の担い手は時に応じて変わるので、恒常的主体とななり得ずにコト的となる。要するに、絶対王政 vs. 民主政がモノ vs. コトの対立とパラレルなのだ。

人間心理における恒常的主体として自我を措定する立場もあれば、ヒュームのように自我を知覚の束に還元する立場もあって、前者がモノ的ならば後者はコト的となる。こうやって考えてみると、モノ vs. コトというのは思いのほか一般的であるようだ。

[2]モノとコトの対立の止揚
モノとコトについて、両者を止揚する立場として安定的なる統合機能の立場を挙げることができるかもしれない。モノは固体として不変でなく、モノを構成する諸粒子は絶えず動き回って、入れ替わったり変質したりしているので、その意味ではモノはむしろコトに近いのだが、さりとて、てんでバラバラというのではない。

モノは全体としてそのモノを構成する諸元素を束ねる何らかの機能を有する、と考えるのだ。機能はモノでなくコトであるが、単なるコトでなくして統一的機能だ。生体であれば恒常性であり、分子であれば諸原子をまとめ上げる何らかの親和力(よう知らないのだが)であり、人間集団ならばひとりひとりの人間を一致協力させる人情やら契約やらとなる。この機能は自己保存として恒常的に働くといった点でモノ的であり、とはいっても、機能それ自体はモノではなくてコトであるので、ここにおいてモノとコトは安定的機能として止揚されることになる。ひとまず私はこの立場に立ちたい。

だから、「モノにとって本質的なるものはモノなのか、それともコトなのか?」と問われたら、「コトはコトであるのだが、とはいってもコトはバラバラではなくて、そこには統合する機能があるのだからモノ的統一感はある。その意味では、モノはモノでもあればコトでもあるのだ」と答えるだろうし、さらに「このコトには何らかの方向性もあって、それがプロセスとも呼ばれるのだ」と言っては、ニヤリとしそうだ。



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