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(17)大学中退直後に行ったヴィパッサナー瞑想合宿

渇望の嵐だった10日間

自給自足の家族とともに生活していると出会うすてきな人たち皆がヴィッパサナー瞑想経験者だったこと、当時付き合っていたパートナーが10日間の瞑想合宿で人生が変わるような経験をしているのを目の当たりにしたこともあり、わたしは大学を辞めてまず最初に瞑想合宿に参加することにした。

ヴィパッサナー瞑想というのは世界中にセンターがあって、日本だと千葉と京都にある。

10日間コースというものがあり、コースが始まる前に、ケータイを預け、人と一切喋らずに、目も合わせずに、1日12時間ひたすら瞑想し続けるというもの。

ここでいう瞑想とは、身体の感覚に意識を向け続けることを意味する。

身体の感覚と無意識の領域がコインの裏表とされていて、感覚に意識を向け続けることで無意識と呼ばれる潜在意識に触れ続ける。

わたしはこれまでに3回、10日間コースを受けたことがあるのだが、この大学退学後の初めてのコースが今までで1番しんどかった。初めてだから当たり前かもだけど、雑念と渇望の嵐ですごかった。
普段自分がいかに感覚ではなく思考の世界を生きているか、いかに、今この瞬間ではなく、過去と未来を生きているかを、嫌というほど思い知った。

そしてわたしの場合は、性的な渇望の嵐がすごかった。
これまで自分がしてきたセックスのハイライトみたいなものが走馬灯のように頭の中を駆け巡ったし実際に性欲のようなものも瞑想コース中に湧いてきた。でもヴィパッサナー瞑想の規約に、コース中に絶対に守らなければならないことの一つに性的な行為をしない、があったのでわたしは必死にこらえていた。笑
そんなふうに性のことばかりがわたしの頭の中を支配してゆくうちに、そんなわたしにとっての「性」の根っこにあるものたちが見えてきた。

性に求めていた存在価値

わたしは、異性から性的に求められるときに、ある種の気持ちよさを感じているのだと気が付いた。それは、「自分が誰かから求められている」「自分が誰かに必要とされている」という感覚。そう感じれる一瞬の気持ちよさ、それは、大袈裟に言えばわたしからわたしへの「存在してていいという安心」とも言い換えられるものだった。

ああ、わたしは、自分の存在価値と性をくっつけていたのだとわかった。そして当たり前に生きてていいはずなのに、性というものに存在価値を求めなければならないほどに、存在自体への不安を感じている自分がいることにも気がついた。

なんて不安の中を生きていたのだろう
なんて怯えの中を生きていたのだろうと

その不安や怯えから
逃げよう逃げようと、
何かを身につけてみたり
人との予定で手帳をいっぱいにしたり
女を醸し出して性的に求められるという状況を作り出したりしてたのだと気がついた。

そういうもので埋めなければ
空の状態でいては、
自分の中の無価値観に自分が飲み込まれてしまいそうでこわかった。

瞑想合宿ではまさにこの
「飲み込まれまいと見て見ぬふりをして
21年間避けに避けながら生きてきたものたち」との真っ向勝負でのご対面だった。


それは玉ねぎの皮を一枚、また一枚と、剥いでいくような時間だった。

外側に現れている
ありとあらゆるわたしの行動
それが、一体どんなものからくるものなのか
どんな内的要因があるのか、
そこにどんな傷があって
どんな想いがあって、どんな感情があって
そしてそこにはどんな願いがあって
わたしは生きていたのか、
コースの後半は
そういったことが、ぽろぽろと瞑想中に溢れ気づくことが続いていた。

欲しかったのは「まなざし」だった

そして、わたしの1番のコアにあった願いは、「絶対的なまなざしが欲しかった」というものだったのだと、気がついた。
それに気がついた瞬間、涙が止まらなかった。
わたしたちはみな、3歳頃に自分の世界を広げて自由を獲得してゆく時期がある。絶対的な安心、絶対的な愛あるまなざしがあるからこそ、怖いけれど未知への一歩を踏み出すことができる。

よく、子どもが砂浜とかで夢中で遊んでいるけれど、ちょくちょく親のいる方を振り返って「見て見てー!」と言い、「見てるよ〜」と言われ、まなざしを確認し安心してたらまた自分の遊びに戻るような。あれだ。

わたしはあれが欲しかった。
いつだって、自分が欲しい時には、そこに愛あるまなざしが在る、そんな状況が欲しかった。それが得れなかったと感じながらわたしは育ってきたのだと、そしてその寂しさや苦しみの紛らわせ方がなんてものだったのだろうと思った。

そしてわたしは、のちにフラワーレメディーの資格を取るために勉強してゆく中で、ある事実を知る。それはわたしたちは一度手に入ったことのあるものしか「欲しい」と思えないのだということ。

わたしが、手に入らなかったと思い込んで、恋愛を通して、パートナーを通して、得よう得ようとしていたものは、実はわたしの中に在るものだった。それがわたしの中の真実と呼ばれるものだった。「ない」からと「欲しい」からと、不足から人と関わるのではなくて、すでに内に在る自分の中の真実と繋がったエネルギーから人と関わるのだとわたしは知った。


わたしたちはみな、
真実を胸に抱え生きている。
その真実の外側に願いがある。
その願いの外側には痛みが
その痛みの外側には防衛が
その防衛の外側には仮面がある。


その玉ねぎの皮をどれだけ剥いでゆけるかが、
どれだけ真実に近いところで目の前の人と関わることができるかが、生きるということなのだとわたしは思っている。

なにをするかじゃなくでどんな自分で在るか


大学を辞めてまず最初にしたことが
ヴィパッサナー瞑想合宿への参加で
ほんとうによかったと今になって思う。

大学を辞めたわたしに必要だったのは
なにをするか doing
ではなく
どんな自分で在るか being
だったから。

どんな自分で在るかが
目の前の現実をつくってゆく。
もちろん行動も大切だけど、
目先のdoingばかりに思考がいくわたしだったから。

そんな自分のためには
内側と深く深く向き合う必要がある。そんな時間をこんなにも世の中でピカイチレベルにたんまりと取れるのは、ヴィパッサナー瞑想合宿しかないと思う。
ケータイを預ける
人と一切話さない
人と目も合わせない

それは普段生活してる中でなかなかできることじゃない。

わたしはこの大学中退後の瞑想合宿が
がつんと自分の内側と手を繋ぎ始める人生の旅の始まりとなったのだった。


とってもよろこびます♡