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心配してもらえる声に安心を得るわたしは甘えているのでしょうか。

「無理するのをやめよう」と無理をやめた。自分にとっての「無理をやめる」は、作業内容ではなく、「大丈夫です」というのをやめる、だったようだ。

作業的には結局無理をしていたし、お前働いて何年目だよって言いたくなるくらいにはギリギリで生きていた。本当にそれをやめたいのに、結局そうなってしまった。

よほど顔が死んでいたのか、諸先輩方から声をかけていただくことが多かった。そこで、今までだったら「大丈夫です」と言っていたけど、できるだけ重く響かないように、できないことやしんどいことを言うようにしていた。若干心配をかけるだろうな、と言うことも、普通に言葉にしていた。「大人なら…」みたいなことを、やめていた。

まだ渦中ながら、振り返って、どうしてあんなに自分が忙しがっていたのだろう、と思う。やることは多いけど、周りはもっとやっている。周りと比べたって仕方ないし、私の周りは仕事が速いし、見えないところでみんなやっているから、見た目通りに受け取ってもいけないけど、でもどうして自分だけ、と思う。言われそうなことはわかっている。
優先順位をつけろ、やらないことを選べ、要領が悪い、あとは何?抜くとこ抜け?ある程度で切り上げろ?わかってるんだよ、そんなこと。

しんどかったから、諸先輩方から心配してもらえることは、嬉しかった。
声をかけてもらえることが、本当にありがたかった。


そんな風に、ある意味優しい環境で生きていたら、「できないことで構われる」を学んだ自分がいるかもしれない、と思った。
そこにはたしかな安心感があった。それは、自分では得られないものだった。

あぁ、もしかして、心配されるために忙しくしんどがっているのか?
自分で自分を満たせていなくて、自己承認ができなくて、そうしているのか?
そうだとしたら、不健全だなぁ、私。

仕事をしながら、「がんばらない自分に意味はない」と思っていたし、「がんばって結果を出さなければ意味がない」と思っていた。仕事だから結果を出すのは当たり前なんだけど、そういう条件付きの自己肯定に疲れ果てた。だから、自分と言う存在が所属して、働いているだけで価値提供ができている、という方向にシフトしようとしていた。
甘えた成長がない方に行っている、という人もいるかもしれないし、年代的にもっと広い視野で物を見てくれなければ、なんていう人もいるかもしれない。だけど、とりあえず自分の安定のために、しばらくそちらの思考を取ってみた。

自分で自分を満たせるように、自分で自分の機嫌くらいとれるように。

【自立】を目指していたのに。

「大丈夫じゃない自分になろうとしていた」なんて、全く真逆じゃない。

【自立】
自分以外のものの助けなしで、または支配を受けずに、自分の力で物事をやって行くこと。

自立とは、1人で生きることではないと思っている。

依存先を増やすとか、いろんな世界を持つとか、いろんな対処法はある。

調べればいくらでも。調べなくたっていくらでも。方法は載っている。

人はどんどん、年を重ねるごとに自分の土台を固めていくのに。
なんだかもう、いろいろわからなくなってしまった。

疲れている、休め。そういわれることもある。
適度な運動、健康的な食事、良質の睡眠。

寝たらスッキリすることもある。だけど、根底は変わらない。
ホルモンバランス?可能性はある。

情報はあふれているのに、あふれているからこそ、あれもこれもやってみて、結局疲れていく。

もがいても、もがいても、沈んでいくときは沈んでいく。


ただ、穏やかに、がんばって成長しながら、笑いながら生きていきたいだけなのに。
どうして涙が出てくるんだろう。

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